奥平貞幹の墓 1基

更新日:2021年5月11日

奥平貞幹(おくだいらさだもと)の墓」について

奥平貞幹の墓

文化財の区分

松山市指定記念物(史跡)

指定(登録)年月日

昭和62年5月26日 指定

所在地及び所有者(管理者)

解説

 奥平貞幹(1817年~1882年)は、松山藩士で江戸時代末期の農政家である。(いみな)を貞幹、通称を三左衛門といい、月窓と号した。藩校明教館で朱子学を修得さたのち、久万山、和気郡などの代官を歴任した。周布・桑村郡の代官として、天保年間(1830年~1844年)に小松藩領との境界争論を解決し、さらにこの地方に水路を開き、農民に農耕灌漑の便を図った。久万山代官として、この地方の備荒貯蓄に努めた。
 貞幹は嘉永年間、和気郡代官として殖産興業に尽くすなど大きな業績を残したが、特筆されるのは、大可賀新田を開発したことである。嘉永4年(1851年)、彼は温泉郡の税収減少に対する積極的な政策として、同郡別府・吉田両村の海岸地域を干潟し得ることに着目した。そこで、山西村の庄屋一色儀十郎にこの事業を担当させ、安政5年(1858年)、およそ50町歩の大可賀新田を開くことができた。この新田の名は、藩主松平勝成の命名による。
 のち慶応2年(1866年)長州征伐の際には、薩摩あるいは長州の両藩に使者となり、両者との交渉に当たった。明治15年(1882年)、65歳で死去した。さきの征長に関する彼の秘録を「月窓之巻」とよぶ。

お問い合わせ

文化財課(文化財保護担当)

〒790-0003 愛媛県松山市三番町六丁目6-1 第4別館2階

電話:089-948-6603

E-mail:kybunka@city.matsuyama.ehime.jp

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