蒲生忠知供養碑 1基
更新日:2021年5月11日
「蒲生忠知 供養碑」について
文化財の区分
松山市指定記念物(史跡)
指定(登録)年月日
昭和57年4月13日 指定
所在地及び所有者(管理者)
松山市末広町(外部サイト) 興聖寺
解説
蒲生氏は、近江国蒲生郡出身の豪族で藤原姓を称し、氏郷のとき豊臣秀吉から会津城主に封ぜられた。その後、子秀行、孫忠郷が家を継いだ。忠郷の逝去後、弟の忠知は松山藩24万石に封ぜられたが、7年後の寛永11年(1634年)、30歳で病没した。その死去の地は京都といわれている。彼は後継者を定めていなかったので蒲生家はここで断絶した。
蒲生家の家臣の一部は松山とその近郊にのこり、遺臣の子孫のうち岡本孫作ら8名が、忠知の死後145年のちの安永7年(1778年)5月に忠知の供養碑を建立した。
碑は、高さ2.54m・幅0.53m・厚さ0.20~0.25mで、表面に「興聖院殿前拾遺華岳宗栄大居士」の文字を刻んでいる。
お問い合わせ
文化財課(文化財保護担当)
〒790-0003 愛媛県松山市三番町六丁目6-1 第4別館2階
電話:089-948-6603