三上是庵の墓 1基
更新日:2021年5月11日
「三上是庵 の墓」について
文化財の区分
松山市指定記念物(史跡)
指定(登録)年月日
昭和45年5月18日 指定
所在地及び所有者(管理者)
解説
三上是庵(1818年~1876年)は、松山藩士で幕末から明治初期に活躍した崎門派の儒者である。文政元年(1818年)生まれ。名を景雄、通称を新左衛門、号を是庵といった。好学の士で、13歳のころには『近思録』・『文選』等を読破していたという。17歳の時、明教館教授の高橋復斎や村田箕山について朱子学を修めたが、翌年藩命によって江戸に遊学し、崎門派の西川楽斎について精進した。是庵は父母を喪い一時帰郷、藩に出仕したが青空の志を抑えることができず、天宝14年(1843年)26歳の時、藩を辞して再び東上、崎門学を奥平
王政復古後の慶応4年(1868年)に戊辰の役がおこり、松山藩は、旧将軍徳川慶喜に近かった関係から、朝敵の汚名のもとに討伐をうけることになった。海南らは是庵を三之丸に迎え、新政府に対する態度を協議したが、この時、是庵は恭順論を主張し、藩主父子は城を出て謹慎するように勧めた。その結果、藩主らは常信寺に入って謹慎の意を表したので、土佐藩兵が松山藩領に進駐した時も、何等の事変も起こらなかった。明治4年(1871年)、彼は三上学寮と称する私塾を開いて、後進の指導に当たった。同9年(1876年)に58歳で病没し、宝塔寺に葬られた。
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