浅山勿斎の墓 1基
更新日:2012年3月1日
「浅山勿斎の墓」について
文化財の区分
松山市指定記念物(史跡)
指定(登録)年月日
昭和62年5月26日 指定
所在地及び所有者(管理者)
松山市祝谷東町(外部サイト) 個人所有
解説
浅山勿斎(1754年〜1797年)は松山藩士で古文辞学者である。諱を尹、字を達甫、通称を太郎左衛門といった。松山藩松平8代藩主定静(1729年〜1779年)と、第9代藩主定国(1757年〜1804年)に歴仕した。古文辞学派の青地快庵について研鑚したが、彼の学統は大月履斎―松田通居―佐藤勘大夫―勿斎であったと思われる。その学識は極めて広く、崎門学・古学をも修得しており、他の学派にも深い理解を持っていた。彼は、安永4年(1775年)藩主定静が文武を奨励するため月次講釈をはじめた時、25歳で抜擢され講師となった。さらに勿斎は、12項目にわたる藩政改革案を藩主に献策した。その献策の内容は、藩主自身が率先して学問に志し、学校を設けること、要職に対する藩士の任免に留意し、老齢を理由として家老等を更迭しないこと、藩主が家老屋敷を訪ねるのは冗費が多くかかるため、訪問の気持ちを万民に及ぼすようにすること、郷村に対し租税を軽くして恩を売っておき、内々で礼金を取り立てるのは過っていること、三津で藩による塩田開発を強行したため、在来の塩田所有者の利益を圧迫する結果となったことなどであった。
勿斎は悲壮の決意のもとに藩政を論議して、その改革案の必要性を力説した。しかし最もよい理解者であった定静の急逝により、守旧を主張する老臣たちの反撃をうけて改革事業は中断された。さらに勿斎自身が寛政9年(1797年)に43歳で死去したため、その目的は達成されなかったと伝えられる。遺骸は常信寺に葬られた。