菊屋新助の墓
更新日:2024年9月6日
「菊屋新助 の墓」について
文化財の区分
愛媛県指定記念物(史跡)
指定(登録)年月日
昭和30年11月4日 指定
所在地及び所有者(管理者)
松山市木屋町2丁目(外部サイト) 円福寺
解説
菊屋新助(1773年~1835年)は、伊予結城(伊予縞)改良生産の功労者である。安永2年(1773年)、野間郡小部(越智郡波方町)の農民伝九郎の子として生まれ、文化年間(1804年~1818年)松山城下に移り、松前町に店舗「菊屋」をかまえ、錦織物の製造に従事した。彼は従来の伊予結城生産用の地機が不完全なのを見て、その改良を決意した。京都西陣から絹織に用いられている「花機」を取り寄せ、これを木綿織用に改造して「高機」とよぶ織機をつくった。この新しい機によって織られた結城は、良質で好評を得たので、高木屋藤吉とはかり、資金を調えてこの機業化をすすめた。さらに、中国、京坂、尾張国および九州の各地に出かけ、販路の拡大に努めた結果、伊予結城の名は全国に知られるようになった。松山藩松平11代藩主定通は国産奨励の立場から、新助らに保護金を貸与して、その事業を援助した。後に、鍵谷カナが新助の「高機」を使って伊予絣を織り出すことに成功する。新助は天保6年(1835年)に逝去し、円福寺に葬られた。境内に「賈人新助墓表」が建てられて、その業績を讃えている。
お問い合わせ
文化財課(文化財保護担当)
〒790-0003 愛媛県松山市三番町六丁目6-1 第4別館2階
電話:089-948-6603