旧石器時代から平安時代
更新日:2012年3月1日
松山の歴史
時代 | 年代 | 松山のできごと、その関連事項 | ||
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西暦 | 和暦 | 月 | ||
旧石器時代 | 約300万年前、アフリカに最初の人類誕生 | |||
BC 50000年ころ | 日本最古の石器が使われる(群馬県岩宿遺跡) | |||
BC 30000年ころ | 松山平野に尖頭器、ナイフ形石器を使用する人が住み始める(小坂釜ノ口・祝谷六丁場遺跡など) | |||
BC 10000年ころ | わが国最古式土器(細隆起線文土器・豆粒文土器)、線刻礫等を製作する集団が現われる(久万高原町上黒岩岩陰遺跡) | |||
縄文時代 | BC 8000年ころ | 地形がほぼ完成、海岸線も安定し、瀬戸内海できる | ||
松山市土壇原、興居島田の尻などで竪穴住居跡に人が住む | ||||
青森県三内丸山遺跡に大規模な縄文集落出現 | ||||
BC 2000年ころ | 松山市周辺の人口ふえる(上野・久米窪田・樋又遺跡など) | |||
松山平野に稲作伝わる。平野西部に大量の石庖丁を使った集落が出現し、農耕文化栄える(大渕・船ヶ谷遺跡など) | ||||
弥生時代 | BC 300年ころ | ヘラ描きによる重弧文・綾杉文・木葉文・沈線文をもつ土器が松山平野に拡がる(文京遺跡など) | ||
九州や朝鮮半島との文化交流(土壇原3・西野3・今市・宮前川別府遺跡など) | ||||
佐賀県吉野ヶ里遺跡に巨大集落が営まれる | ||||
AD1年 | 松山平野一帯に本格的な定住生活はじまる(文京遺跡など) | |||
57年 | 倭の奴国、後漢洛陽に使いを送る(金印「漢倭奴国王」) | |||
南江戸、勝山など高地に集落できる(大峰ヶ台遺跡など) | ||||
平形銅剣、道後周辺に流通する(道後今市・道後樋又遺跡など) | ||||
239年 | 邪馬台国女王卑弥呼、魏に使いを送り、親魏倭王の号賜わる。 | |||
古墳時代 | 300年ころ | 樽味に巨大総柱掘立建物など大集落が営まれる(樽味四反地遺跡) | ||
南江戸で井堰築造による大規模農耕行われる(古照遺跡) | ||||
古照や久米に大きなムラができる(古照・南久米遺跡など) | ||||
松山地方に大和王権の力およぶ | ||||
400年ころ | 桑原の経石山に前方後円墳が築造される(経石山古墳) | |||
500年ころ | 伊予(愛媛県)に久米、伊予、風早などの国造がおかれる | |||
飛鳥時代 |
596年 | 推古4年 | 聖徳太子、葛城臣らと伊予の湯に浴し、湯ノ岡に碑を建てる | |
607年 | 推古15年 | 法隆寺が建立される | ||
7世紀初め | このころ、来住台地に官衙関連施設が建てられ始める(久米官衙遺跡) | |||
639年 | 舒明11年 | 12月 | 舒明天皇、皇后とともに伊予の温泉宮に来る | |
646年 | 大化2年 | 1月 | 大化の改新の詔により、伊予国に国郡制が整備される | |
7世紀中ごろ | 回廊状遺構等官衙施設が碁盤目状に配置される(久米官衙遺跡) | |||
661年 | 斉明7年 | 1月 | 斉明天皇、筑紫行行幸の途中で熟田津石湯の行宮に寄る | |
7世紀後半以降 | 市内で古代寺院が造営され始める | |||
696年 | 持統10年 | 4月 | 伊予国風早郡の物部薬にあしぎぬ・水田などを与え、唐での長い苦労を慰める | |
698年 | 文武2年 | 7月 | 伊予国、白鑞(しろなまり)→スズを献上する | |
699年 | 文武3年 | 8月 | 伊予国、白燕を献上する | |
7世紀後末ころ | 来住廃寺が造営される | |||
701年 | 大宝1年 | 8月 | 大宝律令制定される | |
8世紀初めころ | 伊予国(愛媛県)に13の郡できる(人口約10万人)、松山市周辺には久米、和気、温泉、浮穴、伊予などの郡あり | |||
奈良時代 | 710年 | 和銅3年 | 3月 | 平城京に遷都 |
747年 | 天平19年 | 2月 | 法隆寺の庄として骨奈島(忽那島)の名が現れる | |
748年 | 天平20年 | 4月 | 伊予国天山郷久米熊鷹、東大寺へ出家を願い出る | |
この年までに『伊予国風土記』編集される | ||||
750年 | 天平勝宝2年 | 2月 | 久米郡石井郷の田部直五百依が造東大寺司に貢進される | |
752年 | 天平勝宝4年 | 10月 | 風早・温泉2郡の封戸100個を東大寺の寺家雑用料に充てる | |
757年 | 天平宝宇1年 | 4月 | 伊予国温泉郡橘樹郷の物部小鷹、中務省画工司の候補となる | |
769年 | 神護景雲3年 | 4月 | 伊予国温泉郡上味酒部稲依ら3人に平群味酒臣の姓を賜る | |
784年 | 延暦3年 | 11月 | 長岡京に遷都 | |
平安時代 | 794年 | 延暦13年 | 10月 | 桓武天皇、平安京に都を移す |
797年 | 延暦16年 | 1月 | 南海道が新道に変わり、伊予国の11駅舎を廃止する | |
804年 | 延暦23年 | 空海(弘法大師)唐に留学。帰国後真言宗をひらく、伊予国に興福寺、薬師寺、法隆寺などの庄(荘)できる | ||
808年 | 大同3年 | 伊予国風早郡の光定、比叡山にのぼり天台の教義を受ける | ||
820年 | 弘仁11年 | このころ、忽那島牛馬の牧場となる | ||
838年 | 承和 5年 | 4月 | 光定、伝燈大法師の位に叙せられる | |
858年 | 天安2年 | 内供奉十禅師光定没す | ||
866年 | 貞観8年 | 10月 | 浮穴郡で少領1人が増員される | |
876年 | 貞観18年 | 10月 | 忽那島の牛馬が繁殖し農作物を荒らすので売却を許す | |
881年 | 元慶5年 | 10月 | 伊予国久米郡に郡司(大領・少領)をおくことが認められる | |
887年 | 仁和3年 | 6月 | 伊予国等から進貢する絹が粗悪になったので、旧来の絹を見本として送り織らせる | |
934年 | 承平4年 | 追捕海賊使が任命される | ||
藤原純友、海賊を集めて反乱をおこす | ||||
936年 | 承平6年 | 6月 | 伊予守紀淑人、宇和郡日振島にたてこもる藤原純友の追捕を命じられる | |
940年 | 天慶3年 | 1月 | 小野好古、藤原純友追捕使として伊予国へ向かう | |
941年 | 天慶4年 | 8月 | 海賊船が伊予・讃岐国を襲撃する | |
越智氏、河野氏などが力を伸ばす | ||||
982年 | 天元5年 | 2月 | 伊予国、海賊能原兼信らを追討する | |
996年 | 長徳2年 | 10月 | 伊予国温泉郡権少領伊与連時兼、大領に任じられる | |
1006年 | 寛弘3年 | このころ、雑芸催馬楽「伊予の湯」が京都で流行する | ||
1084年 | 応徳1年 | 4月 | 藤原親賢、忽那島に居を定めるという | |
1086年 | 応徳3年 | 11月 | 白河上皇、院庁で国政を行う(院政の始まり) | |
1087年 | 寛治1年 | 12月 | 源義家、清原家衡・武衡らを討伐する(後三年の役) | |
1117年 | 永久5年 | 12月 | 正六位上越智定吉、伊予大掾に任じられる | |
1137年 | 保延3年 | 9月 | 京都・仁和寺法金剛院の競馬に伊予の馬が使われる | |
1156年 | 保元1年 | 7月 | 後白河天皇方の平清盛・源義朝ら、上皇方を夜襲し崇徳上皇らを破る(保元の乱) | |
1159年 | 平治1年 | 11月 | 平清盛、源義朝らを破る(平治の乱) | |
平重盛、伊予守となる | ||||
1176年 | 安元2年 | 1月 | 右近衛少将平維盛、伊予権介を兼ねる | |
1180年 | 治承4年 | 河野通清、通信、平氏とたたかう | ||
1181年 | 養和1年 | 8月 | 河野氏の惣領・河野通清の戦死が京都に伝えられる | |
9月 | 河野通信、平家方・田内成良の軍に敗れる | |||
1183年 | 寿永2年 | 8月 | 後白河法皇、源義仲を伊予守とする | |
1185年 | 文治1年 | 2月 | 河野通信、兵船を率いて源義経の軍に加わる | |
3月 | 平氏一門、長門(山口県)壇ノ浦の戦いに敗れ、安徳天皇入水する | |||
8月 | 源義経、伊予守に任じられる | |||
11月 | 源頼朝、諸国に守護・地頭をおく | |||
河野氏の勢力盛ん | ||||
1189年 | 文治5年 | 7月 | 河野通信、源頼朝の奥州征伐に従軍する |
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