江戸時代(1600年代、慶長~元禄)
更新日:2012年3月1日
松山の歴史
時代 | 年代 | 松山のできごと、その関連事項 | ||
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西暦 | 和暦 | 月 | ||
江戸時代 | 関ヶ原の戦いで徳川氏勝つ | |||
1600年 | 慶長5年 | 8月 | 加藤嘉明、徳川家康軍に属し、岐阜稲葉城を攻める | |
9月 | 河野氏の残党、毛利軍とともに三津・久米などで戦う | |||
佃十成ら正岡式部大夫を攻める、高縄神社焼失する | ||||
関ヶ原で、石田三成軍大敗する(関ヶ原の戦い) | ||||
11月 | 関が原の戦功により、加藤嘉明、20万石に加増される | |||
12月 | 加藤嘉明、藤堂高虎によって忽那島は2分割され、松山藩領・大洲藩領となる | |||
松山、誕生 | ||||
1603年 | 慶長8年 | 2月 | 徳川家康、征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開く | |
この年、加藤嘉明、勝山に城を築き、正木から移る | ||||
1604年 | 慶長9年 | 1月 | 足立重信、重信川原の開墾を行う(新田開発) | |
1605年 | 慶長10年 | 4月 | 徳川秀忠、第2代将軍となる | |
1609年 | 慶長14年 | 6月 | 加藤嘉明、名古屋城の修築を勤める | |
1613年 | 慶長18年 | 3月 | 足立重信、風早郡二神島の竹木について規則を定める | |
1614年 | 慶長19年 | 10月 | 大地震で道後温泉の湯が止まる | |
1615年 | 元和1年 | 4月 | 大阪・夏の陣起こる | |
5月 | 大阪城落城、豊臣氏滅ぶ | |||
1623年 | 元和9年 | 7月 | 徳川家光、第3代将軍となる | |
1625年 | 寛永2年 | 3月 | 道後温泉、地震のため湯が止まる | |
1627年 | 寛永4年 | 2月 | 加藤嘉明は会津若松40万石に、蒲生忠知は近江国日野郡4万石を加えて24万石とし松山に移される | |
1629年 | 寛永6年 | 1月 | 松山領に一揆起こり、蒲生忠知、これを平定する(蒲生騒動) | |
1633年 | 寛永10年 | 2月 | 奉書船以外の海外渡航、在外5年以上の日本人の帰国を禁止する(第1次鎖国令) | |
6月 | 巡検使、松山へ来る | |||
1634年 | 寛永11年 | 5月 | 長崎に制札を立て、外国人の来航・奉書船以外の渡船などを禁止する(第2次鎖国令) | |
8月 | 蒲生忠知、京都で急死する | |||
大洲城主・加藤泰興、松山城在番を命じられる | ||||
1635年 | 寛永12年 | 5月 | 外国人の入港・貿易を長崎に限り、日本人の海外往来を禁止する(第3次鎖国令) | |
7月 | 松平定行、伊勢桑名から松山へ、弟・定房は長島から今治へ封じられる | |||
9月 | 松平定行、松山に入部する(松平初代藩主) | |||
1636年 | 寛永13年 | この年、松平定行、宇治から茶の木を取り入れる | ||
1637年 | 寛永14年 | 10月 | 島原の乱おこる(同15年まで) | |
11月 | 松山藩、島原へ出兵する | |||
この年、津和地村東の出崎に燈籠が建つ(この地方の灯台のはじまり) | ||||
1638年 | 寛永15年 | 11月 | 幕府の命により、松山藩、城中に米1万石を常備する | |
1642年 | 寛永19年 | この年、幕府の許可を得て、松山城の五重天守を三重に改築する | ||
1643年 | 寛永20年 | 5月 | 松平定行、幕領の宇摩・周布郡のうち18000石余の地を預かる | |
1644年 | 正保1年 | 1月 | 松平定行、異国船警備のため長崎出向の準備を命じられる | |
1645年 | 正保2年 | 5月 | 巡見使、伊予国をまわる | |
1647年 | 正保4年 | 7月 | 松平定行、ポルトガル船来航のため長崎に出向する | |
1650年 | 慶安3年 | 3月 | 全国的に、伊勢参り(お蔭参り)が爆発的に流行する | |
8月 | 松平定行、温泉郡阿沼美神社を再興する | |||
この年定行、和気郡常信寺を建立する | ||||
1651年 | 慶安4年 | 7月 | 幕政を批判し改易された前三河国刈屋城主松平定政、兄の定行に預けられ松山東野に蟄居する | |
8月 | 徳川家綱、第4代将軍となる | |||
1655年 | 明暦1年 | 1月 | 松山藩、木綿座・鍋之座・たばこ座・魚問屋を許可する | |
2月 | 松山藩、農民に対し36か条の触書を布告する | |||
1658年 | 万治1年 | 2月 | 松平定行、隠居して勝山と号する | |
松平定頼、藩主となる(松平2代) | ||||
1659年 | 万治2年 | 8月 | 松平定行、東野別荘に移る | |
1661年 | 寛文1年 | 10月 | 松山藩、木綿座など7座を開放して自由に営業させる | |
1662年 | 寛文2年 | 1月 | 松平定頼、没する | |
3月 | 松平定長、藩主となる(松平3代藩主) | |||
1665年 | 寛文5年 | 2月 | 松平定長、江戸城西丸修理の助役を勤める | |
1666年 | 寛文6年 | 11月 | 松山藩、米不作のため酒造を制限する | |
1667年 | 寛文7年 | 5月 | 松平定長、伊佐爾波神社を造営する | |
巡見使、伊予国に来る | ||||
この年、松山藩、定免制をとる | ||||
1668年 | 寛文8年 | 10月 | 松平定行没する(松平初代藩主) | |
1673年 | 延宝1年 | 5月 | 松山藩、石手寺の諸堂を修理する | |
6月 | 大雨のため、石手川の堤防決壊し、改修工事に町人足1万人が出動する | |||
12月 | 松平定政没する | |||
1674年 | 延宝2年 | 2月 | 松平定長没する(松平3代藩主) | |
4月 | 松平定直、藩主となる(松平4代藩主) | |||
1675年 | 延宝3年 | 3月 | 松山藩、飢饉救済のため、蔵米を出す | |
1677年 | 延宝5年 | 2月 | 松山藩、家臣に法度を示す | |
10月 | 松山城下町の地図がつくられる | |||
1678年 | 延宝6年 | 7月 | 松山地方に大風雨起こる | |
1679年 | 延宝7年 | 2月 | 松平定直、高内親昌を奉行に登用し、土地割替・定免制により財政再建を図る | |
1680年 | 延宝8年 | 6月 | 道後温泉の入浴規制を定める | |
1681年 | 天和1年 | 5月 | 松山藩、領内にキリシタンの制札を立てる | |
1685年 | 貞享2年 | 12月 | 地震で松山城郭が破損、道後温泉の湯が止まる | |
1687年 | 貞享4年 | 9月 | 松平定直、三之丸を居館とする | |
1688年 | 元禄1年 | 4月 | 松山藩、領内の鉄砲数を調べる | |
1689年 | 元禄2年 | 3月 | 松山城下、町内輸送用に、駄賃馬・遣馬・牛を配置する | |
12月 | 松山城下・本町に大火起こり、松平定直が出馬する | |||
1691年 | 元禄4年 | この年、松山城下、宗門改による人口19172人、奉公人2568人 | ||
1693年 | 元禄6年 | 6月 | 伊予国内、大旱魃となる | |
1694年 | 元禄7年 | 1月 | 松山藩城下町の借家・空家の調査を行う(本家2575軒、借家2978軒、うち333軒は空家) | |
6月 | 松山町方の宗門人別改帳を提出させる | |||
1697年 | 元禄10年 | 10月 | 松山藩、酒造家に酒運上の5割増しと自由醸造の許可を通達する | |
1700年 | 元禄13年 | 3月 | 遊行上人(尊澄)、松山へ来る。約1か月滞在中の参詣人94241人 | |
1701年 | 元禄14年 | 4月 | 松山城下・永町より出火、136軒焼失する | |
1702年 | 元禄15年 | 7月 | 大風で松山城の鯱が落ち・松318本倒れ、城下では侍屋敷213軒・民家2389軒倒れ、死者16人出す | |
11月 | 松山藩、秋の大風による被災地に救助米を支給する | |||
12月 | 江戸にて浅野長矩の旧臣大石蔵之助ら赤穂浪士、吉良義央を討つ | |||
松平定直、赤穂浪士・大石主税ら10人を江戸屋敷に預かる | ||||
1703年 | 元禄16年 | 2月 | 松山藩預かりの大石主税ら10人、処刑される |
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