鎌倉時代から南北朝時代

更新日:2012年3月1日

松山の歴史

鎌倉時代/南北朝時代
時代 年代 松山のできごと、その関連事項
西暦 和暦
鎌倉時代 1192年 建久3年 7月 源頼朝、征夷大将軍に任じられる
1203年 建仁3年   佐々木盛綱、伊予国の守護となる
1205年 元久2年 7月 幕府、守護の沙汰をとどめ、河野通信に伊予国御家人32人を統率させる
11月 将軍源実朝、藤原兼平を風早郡忽那島地頭職に任じる
1208年 承元2年 4月 藤原国重、忽那島地頭職に任じられる
1213年 建保1年   河野通盛、和田義盛討伐の功績により伊予国和気郡大内郷などを授与される
1218年 建保6年 9月 河野通信、伊予国守護に任じられ、子・通末が幕府の随兵に選ばれる
1221年 承久3年 4月 河野通信とその子通政、後鳥羽上皇の召しにより京都へ上がる
5月 後鳥羽上皇ら、北条氏討伐を企てる(承久の乱)  
6月 幕府軍京都に常駐する(六波羅探題の始め)
河野通信ら、山城国広瀬で幕府軍と戦い敗れる
7月 河野通信、高縄城で敗れ捕らえられる
8月 河野通信、陸奥国に流される
河野通久、承久の乱の戦功により阿波国富田荘を授与される
1223年 貞応2年 5月 河野通信、陸奥国平泉で没する(伊予・河野氏の素地を築いた武将)
9月 河野通久、阿波国富田荘のかわりに伊予国久米郡石井郷の地頭職に任じられる
1224年 元仁1年 6月 北条泰時、鎌倉幕府の執権となる
1232年 貞永1年 7月 六波羅探題、藤原国重の忽那島地頭職と同島内松吉名を承認する
8月 北条泰時、関東御成敗式目を定める(最初の武家法)
1240年 仁治1年 9月 石手寺の金剛力士像が造られる
1270年 文永7年 5月 幕府、源実朝の菩提を弔うため遍照心院(大通寺)に伊予国3郷を寄進する
1271年 文永8年   一遍(智真)、浮穴郡窪寺で修行を始める
1274年 文永11年   一遍(智真)、時宗を開く
10月 元軍、壱岐・対馬を犯し、次いで筑前国に来襲、大風のため敗退する(文永の役)
1279年 弘安2年   一遍(智真)、踊り念仏を始める
1280年 弘安3年   一遍(智真)、奥州に行き祖父・河野通信の墓を弔う
1281年 弘安4年 6月 元軍・高句麗軍、筑前国博多湾・志賀島などに来襲する(弘安の役)
河野通有、来襲した元軍を博多湾で迎え討ち大奮戦する
1288年 正応1年   一遍(智真)、浮穴郡の岩屋寺に詣で、道後・宝厳寺にとどまる
11月 幕府、鎌倉鶴岡八幡宮へ温泉郡斎院勅旨田を寄進する
1289年 正応2年 8月 一遍(智真)、播磨の和田岬・観音堂で没する
1293年 永仁1年 4月 河野通有、鎌倉で平頼綱討伐に参戦する
1305年 嘉元3年 12月 和気郡太山寺本堂が再建される
1307年 徳治2年 3月 幕府、河野通有に西国及び熊野浦の海賊討伐を命じる
1311年 応長1年 7月 河野通有、没する(河野氏正系の武将)
1324年 正中1年 9月 六波羅探題、後醍醐天皇の倒幕計画を知り、土岐頼有、多治見国長らを殺し日野資朝らを捕らえ鎌倉へ送る(正中の変)
1330年 元徳2年 6月 二神島の法善、大般若経を二神島八幡宮に寄進する
1332年 元弘2年 3月 幕府、後醍醐天皇を隠岐に流す
12月 河野通盛、幕府の命を受けて上京し、京都・六波羅探題軍に参加する
1333年 元弘3年 1月 土居・得能氏ら、楠正成軍に加わり、四天王寺で六波羅探題軍と戦う
2月 土居通増ら、伊予に来襲した長戸探題・北条時直の兵を越智郡石井浜で破る
3月 通増・得能通綱・忽那重清・大祝安親ら、時直を久米郡星の岡に攻めてこれを破る
5月 河野通盛、六波羅軍に属し京都で足利尊氏と戦い敗退する
6月 新田義貞、上野国で挙兵し鎌倉を落とす(鎌倉幕府滅ぶ)
南北朝時代 1334年 建武1年 1月 土居・得能氏ら、後醍醐天皇の京都帰還を護衛する
12月 建武と改元する(建武の新政)
後醍醐天皇、忽那重清の軍功を賞し忽那島の東浦地頭職を承認する
1335年 建武2年 10月 後醍醐天皇、河野通盛の和気郡吉原郷一方の地頭職を承認する
12月 河野通盛、足利尊氏(北朝方)に従い伊予国で挙兵する
1336年 建武3年 2月 土居通増・得能通綱ら、新田義貞(南朝方)に従い摂津国和田岬で足利直義(北朝方)と戦う
1335年 延元1年   このころ通盛、高縄城から道後・湯築城に移る
5月 河野通盛ら、足利尊氏(北朝方)に属して東上、湊川で楠正成らの南朝方と戦う
10月 土居通増、新田義貞(南朝方)に従い越前国に向かう途中戦死する
12月 後醍醐天皇、密かに吉野に移る(南北朝時代はじまる)
1337年 建武4年
延元2年
4月 土居通世・忽那義範ら、忽那島・和気浜などの各地で細川・河野の連合軍(北朝方)と交戦する
  この年、湯築城が構築される
1338年 暦応1年
延元3年
8月 北朝、足利尊氏を征夷大将軍とする
9月 土居通世・忽那義範ら、久米郡播磨塚で北朝方と戦う
1339年 暦応2年
延元4年
4月 征西将軍懐良親王、西下の途中温泉郡中島に寄り、忽那一族これを迎える
1340年 暦応3年
興国1年
10月 忽那義範、中島に来襲した安芸国守護・武田信武軍を撃退する
1341年 暦応4年
興国2年
12月 忽那一族・土居通世ら、北朝方と道後で戦い、恵良城に退く
1342年 康永1年
興国3年
3月 忽那一族・土居通世ら、河野通盛の来襲を撃退し進んでその本拠・湯築城を攻める
4月 脇屋義助、伊予国に下向する
5月 伊予を発った懐良親王が薩摩に着く
  このころから忽那島を「中島」と呼ぶ
1347年 貞和3年
正平2年
8月 足利直義、近畿地方の南朝方攻撃のため、河野通盛の兵を召集する
1348年 貞和4年
正平3年
9月 南朝方・平高顕、忽那義範に周防国・柱島地頭職・領家職を承認する
1349年 貞和5年
正平4年
5月 忽那義範、周防国屋代島などに出撃して内海における制海権の掌握につとめ忽那氏の黄金時代をつくる
1350年 観応1年
正平5年
2月 足利尊氏、河野通盛を伊予国の守護職に任じる
  道後が政治・経済・文化の中心地として栄える
1351年 観応2年
正平6年
2月 足利義詮、河野通盛に兵を率いて上京させる
1353年 文和2年
正平8年
6月 南朝方、京都を一時奪還する
1359年 延文4年
正平14年
12月 足利義詮、南朝方と対戦するため京都を発ち、河野一族これに従軍する
1363年 貞治2年
正平18年
2月 河野通盛、その子・通朝に所領を譲る
1364年 貞治3年
正平19年
11月 河野通朝、侵攻してきた細川頼之の軍と周布郡世田城で戦い敗死する
1365年 貞治4年 4月 河野通堯、細川頼之に高縄山城を攻略され、安芸国・能美島に逃げる
正平20年 5月 河野通堯、懐良親王から帰順を許され、伊予国守護職・所領を認められる
1366年 貞治5年 5月 河野通堯、征西将軍・懐良親王の命で、中国・四国の北朝方を討伐する
正平21年 9月 河野通堯、河野通信以来の本領・惣領職を南朝方から承認される
1368年 応安1年 6月 河野通堯、豊前国から伊予郡松前へ帰り、武家方を温泉郡大空城に攻略する
正平23年 9月 河野通堯、北朝方の軍を各地に破り、府中に入る
1370年 応安3年
建徳1年
  この年、倭寇、明国の山東半島・温州・福建、台湾沿岸を襲う
1371年 応安4年
建徳2年
1月 河野通堯、懐良親王から伊予国守護職に任じられる
1374年 応安7年
文中3年
4月 河野通堯、征西府の命により周防国・大内弘世を討つ
1375年 永和1年
天授1年
8月 河野通堯、南朝方から刑部大輔・伊予国守護職に任じられ、周防国・大内弘世を討つよう命じられる
1377年 永和3年
天授3年
12月 河野通堯、善応寺通玄庵禁制を掲げる
1379年 康暦1年
天授5年
4月 足利義満、諸大名の要求に応じ細川頼之の管領職を罷免して四国へ帰らせる(康暦の政変)
7月 河野通堯、足利義満にくだり伊予国守護職に任じられる
11月 河野通堯、細川頼之と周桑郡佐志久原で戦い敗死する
1382年 永徳2年
弘和2年
2月 大蟲宗岑(風早郡宗昌寺開山)、北朝から大証禅師号をおくられる
1386年 至徳3年
元中3年
9月 南朝方・赤松氏範父子、播磨国清水で幕府軍と戦い敗死する
1387年 嘉慶1年
元中4年
2月 足利義満、伊予郡余戸庄・和気郡吉原郷地頭職などを安国寺に寄進する
1388年 嘉慶2年
元中5年
2月 河野通義、風早郡善応寺通玄庵に禁制を掲げる
1389年 康応1年
元中6年
3月 河野通義・通之兄弟、周防国竃関で将軍足利義満に謁見する
12月 山名氏清、足利義満に背き入京し幕府軍と内野で戦い敗死する(明徳の乱)
1392年 元中9年 10月 後亀山天皇、京都に帰り、神器を後小松天皇に渡す(南北朝の合一)

お問い合わせ

文化財課(文化財保護担当)

〒790-0003 愛媛県松山市三番町六丁目6-1 第4別館2階

電話:089-948-6603

E-mail:kybunka@city.matsuyama.ehime.jp

本文ここまで