江戸時代(1700年代、宝永~寛政)
更新日:2012年3月1日
松山の歴史
時代 | 年代 | 松山のできごと、その関連事項 | ||
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西暦 | 和暦 | 月 | ||
江戸時代 | 1704年 | 宝永1年 | 8月 | 大風により松山領内で1300軒の家が倒壊する |
1705年 | 宝永2年 | 6月 | 松山藩、銀札の運用を始める(宝永5年まで) | |
1706年 | 宝永3年 | 6月 | 松山藩、偽札が流行したので、従来の藩札に改判を加え通用させる | |
1707年 | 宝永4年 | 7月 | 伊予各藩、生類憐みの令を重ねて領内に布告する | |
8月 | 松山領内、大風雨による被害が出る | |||
10月 | 伊予国一帯大地震で被害が続出し、道後温泉が止まる | |||
1708年 | 宝永5年 | 1月 | 松山藩、幕命により藩札の通用を停止する | |
松山藩、幕命により3000両を提出する | ||||
道後温泉、ふたたび湯が出る | ||||
4月 | 松山領内の煎茶売買を茶仲間だけに許可する | |||
11月 | 松山藩領・三津浜、火災により300軒を焼失する | |||
1709年 | 宝永6年 | 5月 | 徳川家宣、第6代将軍となる | |
1710年 | 宝永7年 | 5月 | 巡見使、松山へ来る | |
6月 | 松山領和気郡で54日間の日照りのため畑が半作、900町が干田となる | |||
8月 | 松山藩、5か年間1割6分の減俸とする | |||
1711年 | 正徳1年 | 2月 | 松山領温泉郡味酒村から出火して城下町に延焼し220軒余を焼失する | |
1713年 | 正徳3年 | 4月 | 徳川家継、第7代将軍となる | |
5月 | 松山藩、石手川瀬堀人足3万人を徴発する | |||
8月 | 松山城下永町1・2・3丁目を湊町、弐百人水呑町を柳井町と改称する | |||
10月 | 松山藩、諸郡の大庄屋役を1郡に1人とし、手代・改庄屋を廃止する | |||
1714年 | 正徳4年 | 11月 | 松山藩、抜荷買いを厳禁する | |
1715年 | 正徳5年 | 12月 | 松山藩、寺社奉行をおく | |
1716年 | 享保1年 | 2月 | 松山城下杉谷から出火、武家町屋189軒が焼失する | |
8月 | 徳川吉宗、第8代将軍となる | |||
1717年 | 享保2年 | 4月 | 巡見使、松山藩領に来る | |
1720年 | 享保5年 | 2月 | 松山藩、石手川瀬堀人夫1万5000人を領内に割り当てる | |
10月 | 松平定直、2男定章に1万石を分知する | |||
松平定直、没する(松平4代) | ||||
12月 | 松平定英、藩主となる(松平5代藩主) | |||
1721年 | 享保6年 | 10月 | 松山藩、藩士に対し1割5分の減俸をする | |
1724年 | 享保9年 | この年、伊予各地に干ばつ被害多く、雨ごいの千人踊りが盛んに行われる | ||
1729年 | 享保14年 | 4月 | 松山藩、諸物価の値下げを指令する | |
8月 | 伊予各地大暴風雨あり、松山領内の三津街道が交通途絶するなど被害が出る | |||
9月 | 伊予各地に再び大暴風雨あり、松山領内で倒壊家屋648軒など被害が出る | |||
1730年 | 享保15年 | 6月 | 松山藩、藩札を発行する | |
1732年 | 享保17年 | 6月 | 長雨振り続き、うんかが大発生し稲枯れる | |
7月 | 収穫なく、米麦価格暴騰し餓死者がでる | |||
9月 | 義農作兵衛麦種を残し、餓死する | |||
この年飢饉のため、松山周辺で3500人死亡(享保の大飢饉) | ||||
1733年 | 享保18年 | 2月 | 松山藩、餓死者の慰霊祭を行う | |
5月 | 松平定英没する(松平5代藩主) | |||
7月 | 松平定喬、藩主となる(松平6代藩主) | |||
12月 | 松山藩、札の辻に目安箱を設置する | |||
1734年 | 享保19年 | 1月 | 松山藩、道後の御茶屋を売却する | |
1740年 | 元文5年 | 6月 | 松山藩、郷町に出銀を命じ借用を希望する藩士に貸し付ける | |
この年松山藩、領境・郡境一里塚などを石標に改める | ||||
1741年 | 寛保1年 | 3月 | 松山領浮穴郡久万山農民、茶の下落・紙すきの重税のため強訴を図り、久米村まで進出する | |
8月 | 久万山農民、大宝寺斉秀の周旋により帰村する | |||
1744年 | 延享1年 | 4月 | 松山藩、三津繩手にからはぜを植える | |
8月 | 松山領内に大風雨がある | |||
この年、松山藩、享保大飢饉以来軽減していた年貢率を元に戻す | ||||
1746年 | 延享3年 | 2月 | 松山藩、石手川の瀬堀人足3000人を命じる | |
1748年 | 寛延1年 | 7月 | 松山領内洪水で道後温泉が土砂に埋まるなど被害が出る | |
1749年 | 寛延2年 | 2月 | 松山藩、藩士に救米を与える | |
4月 | 松山藩、石手川瀬堀人足5000人を割り当てる | |||
1752年 | 宝暦2年 | 9月 | 松山藩、藩士の救済策を講じる | |
1753年 | 宝暦3年 | 10月 | 松山藩、藩士の借用銀の半額を立て替える | |
1756年 | 宝暦6年 | 4月 | 松山領風早郡佐古村農民、松山藩丁に困窮を訴える | |
松山藩、重信川を改修する | ||||
1757年 | 宝暦7年 | 7月 | 伊予各地に風雨の被害起こり、松山領では損耗高を31854石余と報告する | |
1760年 | 宝暦10年 | 1月 | 松山藩、城下の町人に対し、米価の下落に対応して物価の引き下げを指令する | |
10月 | 松山藩、将軍家にみかんを献上する | |||
松山藩、米商売の不正を禁じ、条目を公布する | ||||
1761年 | 宝暦11年 | 2月 | 松山藩、領内農民から借米をする | |
1763年 | 宝暦13年 | 3月 | 松平定喬没する(松平6代藩主) | |
5月 | 松平定功、藩主になる(松平7代藩主) | |||
1765年 | 明和2年 | 2月 | 松平定功没する(松平7代藩主) | |
松平定静、藩主になる(松平8代藩主) | ||||
1768年 | 明和5年 | 3月 | 松山領和気郡祝谷村に東照宮(松山神社)が建立される | |
7月 | 松山藩、町方に差上げ銀を指令する | |||
8月 | 松山藩、紙について規定を作り城下等に専売の紙方御用場を設置する | |||
10月 | 松山城下坂之組より出火し、200軒余が焼失する | |||
1770年 | 明和7年 | 5月 | 松山藩、先年上地した1万石の償い他に郷村における新田をこれに当てるように許可される | |
12月 | 松山城下の南・北に大火があり侍屋敷290軒・町屋650軒及び2寺が焼失する | |||
この年、伊予国各地の干ばつ被害が大きい | ||||
1771年 | 明和8年 | 11月 | 松山藩、当地の米価下落のため家中の暮れ渡し給与を銭札とする | |
この年、伊予国各地で伊勢お蔭参りが流行する | ||||
1773年 | 安永2年 | 10月 | 松山藩、知行米・切米(蔵米)・諸渡米(役料)について規定する | |
1775年 | 安永4年 | 6月 | 松山藩、郷町に対して貯銀米を命じる | |
この年、三津に塩浜が完成する | ||||
1779年 | 安永8年 | 7月 | 松平定静没する(松平8代藩主) | |
8月 | 松平定国、松山藩主となる(松平9代藩主) | |||
1780年 | 安永9年 | 1月 | 松山藩、7月から家中渡し米を7割とする | |
2月 | 大浦の半分と小浜・粟井の半分が天領となる | |||
1782年 | 天明2年 | この年、伊予国各地に風水の被害が多い。松山領・三津川口の港神社が高潮のために流される | ||
1783年 | 天明3年 | 8月 | 松山領、大雨のため重信川の土手100間が決壊する | |
1783年 | 天明3年 | 12月 | 松山藩、米作の損耗高24930石を届け出る | |
1784年 | 天明4年 | 1月 | 松山城天守閣、雷火のため焼失する | |
松山城下河原町より出火、100軒余が焼失する | ||||
12月 | 松山城下竹之鼻町より出火し、100軒余を焼失する | |||
1787年 | 天明7年 | 3月 | 松山領久米郡日瀬里・来住両村の農民、大洲領伊予郡宮ノ下村に逃散する | |
4月 | 松山城下町人ら、商売振興のため郷方商人の城下町への移住を訴える | |||
6月 | 松山藩、藩士に人数扶持を実施する | |||
1789年 | 寛政1年 | 4月 | 巡検使、伊予国に来る | |
6月 | 松山城下新立に永久橋が開通する | |||
1790年 | 寛政2年 | 2月 | 松山藩、藩士救済のため、100石につき銀500匁の貸付を行う | |
7月 | 松山藩、干ばつのため被害74500石余に及ぶ | |||
12月 | 松山藩、倹約令を続行させる | |||
1792年 | 寛政4年 | この年、松山領内に暴風雨・洪水が起こり、田畑損耗高5万2600石余となる | ||
1793年 | 寛政5年 | 1月 | 伊予国各藩、幕命により異国船漂流のときの措置を決める | |
3月 | 松山藩、凶荒のため倹約を厳命する | |||
1795年 | 寛政7年 | 1月 | 小林一茶、讃岐より伊予路へ入る(2月、道後温泉に入湯する) | |
1799年 | 寛政11年 | 7月 | 松山藩、干ばつによる被害損耗高67000石余に及ぶ |
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