明治時代
更新日:2012年3月1日
松山の歴史
時代 | 年代 | 松山のできごと、その関連事項 | ||
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西暦 | 和暦 | 月 | ||
明治時代 | 明治維新、始まる | |||
1868年 | 明治1年 | 1月 | 鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)はじまる。松山藩は参戦せず。 | |
松平勝成・定昭、恭順の意を示し、常信寺に退去する | ||||
松山城接収のため土佐藩兵ら松山に入り、土地人民とも当分土佐藩預かりとなる | ||||
3月 | 松山領内村々の庄屋・百姓が藩主父子免罪嘆願を土佐奉行所に提出する | |||
5月 | 朝廷、前松山藩主松平勝成を復職、当主定昭を蟄居させ、軍資金15万両の献納を命じ、また土佐藩の松山領預かりを解き撤兵を指令する | |||
9月 | 明治と改元 | |||
11月 | 松山藩、藩政改革により松山城下に市政司を設置し、市政管事(のち主事)が市政を執行する | |||
1869年 | 明治2年 | 2月 | 松山藩、藩政改革を実施する | |
松平勝成、版籍奉還を上表する | ||||
3月 | 松山藩の士民、弁事役所へ松山前藩主久松定昭の赦免を嘆願する | |||
朝廷、定昭の蟄居赦免を通知する | ||||
6月 | 勝成、新政府から藩知事に任命される | |||
8月 | 松山新藩庁(三之丸)を開庁する | |||
1870年 | 明治3年 | 5月 | 松山藩、石高・戸口を調査する(戸数5万3091・人口21万1886人) | |
10月 | 松山城内三之丸の藩庁が焼失し、藩庁を二之丸に移転する | |||
1871年 | 明治4年 | 1月 | 松山藩知事久松勝成が隠居し、久松定昭が藩知事に任命される | |
7月 | 廃藩置県で松山藩は松山県となる | |||
8月 | 旧藩主の東京移住が決まり、藩内住民が動揺し久米騒動が発生する | |||
松山城堀之内が兵部省管轄となる | ||||
10月 | 松山県、農民に王政復古の趣旨を告諭し一揆を戒める | |||
1872 | 明治5 | 2月 | 松山県、石鐵県と改称する | |
松山城二之丸(石鐵県庁)が焼失する | ||||
5月 | 大区・小区を設定する(風早郡は11大区・和気風早島方は12大区・和気郡は13大区・温泉郡は14大区・松山城下は15大区・久米郡は16大区・浮穴郡窪野・久谷村は17大区・浮穴郡森松村などは18大区に所属) | |||
8月 | 大阪鎮台第2分営の16番大隊5・6番小隊(152人)が松山に分遣され、松山城堀之内に駐留する | |||
9月 | 道後温泉1・2・3の湯を2階建てに改築する | |||
学制頒布を行う | ||||
11月 | 太陽暦を採用する | |||
中島で温州みかんの栽培はじまる | ||||
1873年 | 明治6年 | 2月 | 松山城、大蔵省管轄となる | |
愛媛県が誕生する | ||||
6月 | 釣島灯台、初めて点灯する | |||
三津浜の石崎平八郎、汽船・天貴丸の運航を開始する(愛媛県下で最初の汽船所有) | ||||
1874年 | 明治7年 | 9月 | 松山・西条で愛媛県下初の徴兵検査を実施する | |
1877年 | 明治10年 | 4月 | 「愛媛新聞」、「海南新聞」と改題する | |
6月 | 松山堀之内へ兵営を設置する | |||
県庁を大林寺に仮移転する(11年11月25日→一番町現在地へ移る) | ||||
11月 | 公共社(民権政治結社)が松山小唐人町巽学校で第1回政談演説会を開催する(傍聴人200人余) | |||
1878年 | 明治11年 | 1月 | 松山で勧業会を開催する | |
2月 | 丸亀-松山-宇和島と松山-久万-高知の電信が開通する | |||
5月 | 土佐立志社の植木枝盛ら松山で遊説し、松山公共社との提携を強化する | |||
11月 | 愛媛県庁、一番町に新築落成する | |||
12月 | 松山地方裁判所新築落成する(一番町・松山藩家老菅氏旧邸) | |||
1881年 | 明治14年 | 1月 | 松山旧城下を東西南北の4地区に統合し、4戸長役場を設置する | |
1882年 | 明治15年 | この年、大蔵卿松方正義の財政政策(松方デフレ)の影響を受け、松山の米価1石(中)7円50銭に下落する(同13年の米価、明治10年代最高の9円78銭3厘) | ||
1883年 | 明治16年 | 6月 | 久松家育英事業(常磐会)を起こし、旧藩士の優秀子弟に学資支給 | |
1884年 | 明治17年 | 6月 | 丸亀連隊の分営(松山堀之内)を廃止し、松山歩兵第22連隊を創立する | |
8月 | 大暴風雨により温泉郡大可賀海岸は大津波を受け、死者53人。新苅屋村では漁船84隻が破損する | |||
11月 | 風早郡和気温泉久米郡役所を榎町に新築移転する | |||
1885年 | 明治18年 | 3月 | 愛媛県、松山城下の一万町ほか99町を松山と総称することを指示 | |
この年、松山地方の絣などの生産額が19万反(明治10~12年の平均約85万反)に落ち込み、家内製織が衰微する | ||||
1886年 | 明治19年 | 1月 | 小林信近ら、松山-三津浜間軽便鉄道敷設を県知事に出願する(12月28日県知事認可) | |
8月 | 松山歩兵第22連隊が創設される | |||
12月 | 松山鉄道会社(伊予鉄道の前身)を創立 | |||
1887年 | 明治20年 | 6月 | 県立松山病院、新築落成する | |
9月 | 松山鉄道会社、創立集会を開き社名を伊予鉄道会社と改める | |||
1888年 | 明治21年 | 6月 | 県立道後公園が開園する(湯築城跡) | |
10月 | 伊予鉄道会社、松山-三津浜間が開業する(日本初の軽便鉄道) | |||
1889年 | 明治22年 | 2月 | 内務大臣、東京・京都・大阪・徳島・松山・高知など36都市の市制施行地を指定する | |
3月 | 城北練兵場を設置する | |||
7月 | 松山郵便局、松山電信局と合併し松山郵便電信局と改称する | |||
12月 | 「市制」施行で松山市誕生。全国で39番目の市。人口32916人 市制施行により、事務取扱所を湊町4丁目円光寺内に設置する |
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この年、伊予かんの栽培がはじまる | ||||
1890年 | 明治23年 | 1月 | 県立松山1等測候所を温泉郡持田村に設置する(現松山東署敷地内) | |
2月 | 木村利武、松山市初代市長に就任する(市議会が推薦し内閣総理大臣が裁可) | |||
伊佐庭如矢、初代道後町長になる | ||||
3月 | 道後温泉を町営に移管する | |||
4月 | 市役所が開庁する | |||
8月 | コレラが流行、患者総数38人・死亡28人 | |||
1891年 | 明治24年 | 1月 | 私立松山夜学会を創立する(三番町・創立者コルネオ・ジャジソン、西村清雄ら。27年5月松山夜学校と改称。) | |
4月 | 市公会堂を建設する(萱町2丁目) | |||
12月 | 市役所、湊町円光寺から出淵町1丁目の新庁舎に移転する | |||
この年、赤痢が流行し患者111人・死者37人 | ||||
1892年 | 明治25年 | 11月 | 松山城に正午砲(おひるのドン)を設置する | |
1893年 | 明治26年 | 5月 | 伊予鉄道会社、松山-平井間開通する | |
9月 | 道後鉄道会社を創立する(一番町-道後-三津口間の狭軌鉄道敷設、28年8月28日開通) | |||
1894年 | 明治27年 | 4月 | 道後温泉本館の改築落成式を挙行する | |
8月 | 清国に宣戦布告する | |||
松山歩兵第22連隊、三津口から出征する(日清戦争) | ||||
9月 | 長建寺に清国捕虜を収容する(~28年8月) | |||
1895年 | 明治28年 | 7月 | 出征中の歩兵第22連隊、松山に凱旋する | |
8月 | 正岡子規、療養のため帰省し愚陀仏庵で夏目漱石と生活する | |||
10月 | 松山電灯会社を設立する(湧ヶ淵を発電所とする) | |||
1896年 | 明治29年 | 1月 | 伊予鉄道、森松線開通する | |
2月 | 白川福儀、第2代松山市長に就任する | |||
松山貯蓄銀行を設立する | ||||
松山商業銀行を設立する | ||||
7月 | 南予鉄道会社の松山-郡中間の汽車が開通する | |||
10月 | 三津浜銀行を設立する | |||
1897年 | 明治30年 | 4月 | 郡制を施行し、風早・和気・久米・温泉の4郡を廃し、その全てを温泉郡とする | |
7月 | 第五十二国立銀行を五十二銀行に改組する | |||
1898年 | 明治31年 | 1月 | 伊予農業銀行を開業する | |
松山警察署が新築落成する | ||||
4月 | 伊予煉瓦製造所を設立する | |||
10月 | 愛媛県農工銀行が開業する | |||
1899年 | 明治32年 | 6月 | 今出銀行を設立する | |
7月 | 伊予鉄道梅津寺臨時停車場を開場する(海水浴場開設) | |||
8月 | 第1回愛媛県重要物産共進会を市公会堂で開催する | |||
10月 | 伊予鉄道の横河原駅が竣工し、松山-平井-横河原間が開通する | |||
11月 | 道後温泉の霊の湯・又新殿が新築落成する | |||
1900年 | 明治33年 | 4月 | 市制10周年記念式典を挙行する | |
6月 | 松山-北条間に乗合馬車を創業する | |||
1902年 | 明治35年 | 2月 | 浅野長道、第3代松山市長に就任する | |
5月 | 愛媛県農工銀行が新築落成する(二番町) | |||
11月 | 伊予水力電気株式会社が初めて小唐人町と三津浜に電灯を点灯する(翌年4月に道後湯之町にも点灯) | |||
1903年 | 明治36年 | 1月 | 伊予水力電気会社、営業を開始する(唐人町2丁目) | |
4月 | 松山郵便電信局、松山郵便局と改称し高松郵便局の管轄となる | |||
高浜港桟橋を架設する | ||||
5月 | 伊予水力電気会社、点灯3000個記念祝賀会を開催 | |||
1904年 | 明治37年 | 2月 | ロシアに宣戦布告する(日露戦争) | |
松山及び丸亀衛戍地に俘虜収容所設置が決定 | ||||
3月 |
松山俘虜収容所を設置する(大林寺・勧善社・公会堂・城北練兵場・御幸村、山越の寺院などが収容地に指定される。閉鎖まで収容俘虜約6000人。39年2月16日俘虜送還) | |||
4月 | 森松の重信川橋が開通する | |||
5月 | 歩兵第22連隊、高浜港から満州へ出征する(のち補充出征18回) | |||
6月 | 松山地方の伊予絣、戦争勃発のため上半期の商業不振となる(生産額が前年度に比べて3~4割減) | |||
1905年 | 明治38年 | 1月 | 伊予鉄道、松山-高浜間が全通する | |
4月 | ロシア人捕虜59327人のうち松山収容は4403人となる | |||
9月 | 米国のポーツマスで日露平和条約調印に際し、松山でも盛んな戦勝祝賀を行う | |||
1906年 | 明治39年 | 1月 | 歩兵第22連隊、高浜港に凱旋する | |
2月 | 松山俘虜収容所の捕虜、高浜港からの送還を終了する | |||
9月 | 高浜港の開港式を挙行する | |||
1907年 | 明治40年 | 5月 | 松山開市300年の祭典を市公会堂・市内各神社で挙行する | |
1908年 | 明治41年 | 2月 | 長井政光、第4代松山市長に就任する | |
3月 | 市内電話の開通祝賀会を市公会堂で挙行する(加入者数168人) | |||
4月 | 朝美村(味酒・南江戸)・雄郡村・素鵞村(中村・立花)・道後村の各一部を松山市に編入する | |||
10月 | 伊予鉄道、松山駅改築落成式・創業20周年の祝典を挙行する | |||
この年、松山にゴム輪の人力車が出現する | ||||
1909年 | 明治42年 | 2月 | 松山に長距離電話が開通する | |
9月 | 松山駅前(現在の市駅)に9階楼が完成する | |||
1911年 | 明治44年 | 5月 | 松山市制20周年記念祝典を市公会堂で挙行する | |
8月 | 伊予鉄道の一番町-道後間・古町-道後間に電車が開通する | |||
この年、松山市内の自転車880台あまりとなる この年、三津浜塩田が廃止となる |
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