大正時代
更新日:2012年3月1日
松山の歴史
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時代 | 年代 | 松山のできごと、その関連事項 | ||
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西暦 | 和暦 | 月 | ||
大正時代 | 1912年 | 明治45年 大正1年 |
1月 | 松山ガス会社(江戸町)、ガス供給を開始する(県下最初) |
9月 | 県下に暴風雨あり、石手川が決壊する | |||
11月 | 松山初の常設活動写真館・世界館(のち有楽座)が小唐人町(大街道)2丁目に開業する | |||
1913年 | 大正2年 | 4月 | 県立松山病院、日本赤十字社に譲渡され日赤愛媛支部病院として新発足する(現・東雲学園校地・8年3月に二番町の現・NTT敷地に移転) | |
9月 | 伊予・温泉果物同業組合を創立する | |||
1914年 | 大正3年 | 2月 | 長井政光の第4代市長就任が裁可される | |
3月 | 県公会堂が県庁東側に落成する | |||
7月 | 第1次世界大戦はじまる | |||
9月 | 伊予絣、大戦勃発の影響でますます不振となり不況は翌4年10月ころまで続く | |||
11月 | ドイツ軍捕虜収容所を開設する(市公会堂・寺院に419人を収容) | |||
1915年 | 大正4年 | 7月 | 国民党愛媛支部の結成式を松山市で開催する(党総務犬養毅来松) | |
9月 | 立憲同志会愛媛支部発会式を松山市新栄座で開催する(参会者2500人余・支部長高須峯造、加藤高明ほか片岡直温・浜口雄幸ら来松) | |||
10月 | 石手川北側堤防に造成中の公園を石手川公園と命名する | |||
この年、伊予絣の生産高が115万4097反、生産価格126万9615円となり最盛期の明治39年の48%、同生産価額の39%に落ち込む(明治末・大正を通して最低の記録) | ||||
1916年 | 大正5年 | 2月 | 伊予絣、売行き良好と相場高騰で停滞品が一掃し、代用染料使用で化学染料の暴騰も苦にならず操業が盛んとなる | |
6月 | 旧伊豫銀行が開業する(三番町) | |||
1917年 | 大正6年 | 3月 | 伊予鉄道電気会社松山駅(現・松山市駅)前の9層楼を取り壊す | |
4月 | ドイツ軍捕虜、徳島県坂東町へ移送される | |||
7月 | 愛媛新報、新浜村古深里の造船業の活況と造船職工の不足を取り上げ報道する | |||
9月 | 松山市の職人・職工の日給、諸物価高騰に伴い、本年3月に比べこの月10~20%上昇する | |||
11月 | 松山の白米小売値1升28銭5厘に値上がりし、空前の高値となる | |||
12月 | 勝田主計(松山市出身)、寺内内閣の大蔵大臣に就任する(愛媛県人で初の大臣) | |||
1918年 | 大正7年 | 8月 | 松山の白米小売値1升50銭となり愛媛新報が松山の米価は「40銭になってから10日と経たない今日遂に50銭」に狂騰、富山県のように「或いは一揆が起こらないとも限らぬ」と報道する | |
8月15日午後9時ころ市内で米騒動が起こり、各町の米殻商を襲撃し、60人余が検挙される | ||||
10月 | スペイン風邪(大正熱)が大流行する(11月上旬の市内患者数2万人~2万5000人、小・中学校の休校・学級閉鎖続発) | |||
11月 | 松山ガス会社、経営不振のためガス供給を中止する(8年4月10日事業再開) | |||
1919年 | 大正8年 | 2月 | 社会問題研究会を創立する(提唱者・森盲天外、市長長井政光・岡田温・田内栄三郎ら参加、当面の研究問題は米価問題) | |
5月 | 松山市制実施30周年の記念式典を挙行する | |||
6月 | 松山臨時救済会を設立する(海南新聞社・愛媛新聞社・伊予日本新聞社・松山商工会及び松山市の5団体で組織、窮民救済) | |||
7月 | 歩兵第22連隊、シベリア派遣のため高浜港を出帆する | |||
9月 | 伊予絣が盛況となる | |||
12月 | 松山で普通選挙期成同盟会を結成する(森盲天外・高須峯造ら) | |||
松山市医師会を設立する | ||||
1920年 | 大正9年 | 1月 | 松山労働者会設立し、第1回月例会を木屋町キリスト教伝道館で開催する | |
4月 | 伊予絣、恐慌の影響で売れ行き不振・価格暴落 | |||
5月 | 伊予絣の各機屋、自家工場の職工半数(300~400人)を解雇し賃金4分の1に切り下げる | |||
6月 | 松山の呉服商・小間物商・露天・辻店にいたるまで、安売り・投売り・捨て売りを行う | |||
9月 | 歩兵第22連隊、シベリア出兵から高浜港に帰還する | |||
10月 | 第1回国勢調査で松山市世帯数11804・人口51250人となる | |||
1921年 | 大正10年 | 1月 | 伊予絣が好況となる | |
2月 | 伊予鉄道電気会社高浜火力発電所が開業する | |||
4月 | 伊予鉄道電気株式会社、松山電気軌道株式会社と合併する | |||
10月 | 高浜~興居島~中島間に電信が開通する | |||
松山の労働者、社会主義結社「自修会」を創立する(のち無産者同盟と改称、会員約50名) | ||||
11月 | 松山市連合青年団を結成する | |||
12月 | 伊予貯蓄銀行(三番町)、愛媛貯蓄銀行・松山貯蓄銀行及び県内普通銀行の貯蓄銀行業務を集中して創立される | |||
1922年 | 大正11年 | 3月 | 伊予農業銀行、松山商業銀行を吸収合併して愛媛銀行と改称する | |
水平社演説会を素鵞村相向寺で開催する | ||||
5月 | 普選促進演説会を新栄座で開催する。初めて女性50人余が傍聴する | |||
加藤恒忠(拓川)が第5代市長に就任する | ||||
道後温泉砂湯(西湯)の増設が完成する | ||||
8月 | 歩兵第22連隊(約2000人)、軍縮実行で460人(ほぼ3個中隊)を整理・帰休させる | |||
10月 | 松山に女性最初の自動車運転手が出現する | |||
1923年 | 大正12年 | 4月 | 道後村を廃し、大字一万・大字道後の一部を松山市、他は道後湯之町編入が告示される | |
5月 | 岩崎一高、第6代松山市長に就任する | |||
8月 | 松山無尽会社が開業する | |||
9月 | 松山市、関東大震災救援会を組織する | |||
松山で無産青年同盟を創立する | ||||
10月 | 松山自動車会社を設立する(榎町、松山-北条-今治・松山-久万・松山-郡中・松山-高浜間などのバス路線経営) | |||
11月 | 道後温泉、国有財産法により19000円で道後湯之町に払い下げ | |||
1924年 | 大正13年 | 4月 | 政友本党愛媛支部発会式を県公会堂で挙行する(会衆2000人) | |
5月 | 愛媛普選同盟、三番町寿座で演説会を開催する | |||
9月 | 日本農民学校協会主催の社会問題・農村問題講習会を県公会堂で開催する | |||
四国水平社大会を寿座で開催する | ||||
1925年 | 大正14年 | 1月 | 私設愛媛飛行場・愛媛飛行訓練所が重信川河川敷(重信大橋と中川原の中間)に開設、本県初の本格的飛行場 | |
4月 | 松山商業学校が第2回選抜中等学校野球大会(甲子園)で初の全国優勝 | |||
10月 | 第2回国勢調査で松山世帯数13270・人口58292人となる | |||
12月 | 腰折山のエヒメアヤメ国指定天然記念物となる | |||
1926年 | 大正15年 昭和1年 |
1月 | 第1次若槻礼次郎内閣が成立 | |
2月 | 松山市と素鵞村・雄郡村・朝美村・御幸村の編入合併が告示される(2月11日施行・人口70115人) | |||
5月 | 松山合同労働組合を結成する(日本労働組合評議会加盟) | |||
8月 | 御手洗忠孝、第7代松山市長に就任 | |||
井関農具商会(現井関農機株式会社の前身)、新玉町1丁目(現湊町6丁目)に開業する | ||||
12月 | 大正天皇崩御、摂政裕仁親王が踐祚し昭和と改元する |
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文化財課(文化財保護担当)
〒790-0003 愛媛県松山市三番町六丁目6-1 第4別館2階
電話:089-948-6603