昭和時代(11年~20年)
更新日:2012年3月1日
松山の歴史
時代 | 年代 | 松山のできごと、その関連事項 | ||
---|---|---|---|---|
西暦 | 和暦 | 月 | ||
昭和時代 | 1936年 | 昭和11年 | 1月 | 大日本国防婦人会愛媛本部発会式を第22連隊城内練習場で挙行する |
2月 | 第10回建国祭を知事列席の下、県下初の大規模式典として城北練兵場で挙行する(会衆3万人、式後市中を大行進) | |||
5月 | 紙本墨書源氏物語系図(久松定武氏蔵)、重要文化財に指定される | |||
9月 | 浄土寺木造空也上人像、重要文化財に指定される | |||
1937年 | 昭和12年 | 3月 | 市庁舎が完成する(二番町・総工費28万9000円・鉄筋コンクリート4階建て約4600平方メートル。4月19日落成式挙行) | |
6月 | 新浜村を三津浜町に編入する | |||
第1次近江文麿内閣が成立する | ||||
9月 | 隣組組織が誕生し、活動を開始する | |||
10月 | 明教館、松山中学校運動場の東北隅に移築落成する | |||
11月 | 愛媛県教育会館、持田町松山農業学校跡地に完成し落成式を挙行する | |||
1938年 | 昭和13年 | 2月 | 綿糸配給統制規制(3月1日施行)による伊予織物同業組合への配給量が従前の6割減、年予想生産高80万反に激減する | |
3月 | 戦傷兵のための愛国寮(衛戌病院、松山城二之丸)が3万人の愛国婦人会員の募金で建設され、献納式が挙行される | |||
県・第1回満濠開拓義勇軍105人の壮行会が県公会堂で盛大に挙行される | ||||
4月 | 北支事変戦没者合同慰霊祭を城北練兵場で挙行する | |||
愛国子女団(愛国婦人会傍系団体)、松山市全女学校生徒を網羅して結成される | ||||
9月 | 清水勇三郎、第11代市長に就任する | |||
県立松山測候所を廃止する(10月1日に国営に移管、中央気象台松山測候所と改称。後に松山気象台と改称) | ||||
10月 | 第11師団の満州派遣に伴い、歩兵第22連隊は松山駅を出発する(5日、坂出港より満州に移駐) | |||
1939年 | 昭和14年 | 4月 | 松山青年学校を廃し、中央・女子・番町・味酒・八坂・東雲・新玉・清水・雄郡・素鵞の各青年学校を設置する(13日開校) | |
市銃後奉公会が発足する | ||||
10月 | 愛媛県護国神社(愛媛招魂社)、松山市御幸寺山麓に造営される | |||
松山城山からのサイレンで正午の時報を開始する | ||||
1940年 | 昭和15年 | 2月 | 市制50周年記念式典を挙行する | |
5月 | 松山警察署が新築移転する(勝山町・近代的城郭造り) | |||
7月 | 松山市と三津浜町・味生村・久枝村・潮見村・桑原村・堀江村・和気村の7町村編入合併が告示される(8月1日施行、人口11万7783人) | |||
8月 | 市、切符制による米の自主的配給を始める | |||
9月 | 満濠開拓青少年義勇軍愛媛中隊の181人の壮行会を県公会堂で盛大に挙行する | |||
10月 | 第5回国勢調査で松山市世帯数25541・人口117534人となる | |||
12月 | 大政翼賛会結成・三国同盟締結県民大会を城北練兵場で挙行する | |||
隣保団の精神に基づき町内会、常会の設置を促進する | ||||
石油節約のため、松山に木炭自動車が出現する | ||||
1941年 | 昭和16年 | 3月 | NHK松山放送局、開局 | |
7月 | 青年学校生徒と有志による炭鉱勤労報国隊、福岡県の炭鉱に出発する | |||
8月 | 松山五十二銀行・豫州・今治の3行合併が認可され伊豫合同銀行となる(1県1行の実現、30日伊豫合同銀行創立総会) | |||
10月 | 東条英機内閣が成立する | |||
11月 | 歩兵第122連隊(第65旅団従属)、松山で編成される | |||
歩兵第122連隊、三津浜港より出征する | ||||
三津浜港を松山港と改称する | ||||
12月 | 海南新聞・伊予新報・南予時事新聞が統合し、愛媛合同新聞を創刊する | |||
太平洋戦争が勃発する | ||||
市・大政翼賛会県支部共催「愛媛県必勝国民大会」が県知事・市長など5000人を集めて挙行される | ||||
1942年 | 昭和17年 | 1月 | 松山国民職業指導所、福岡県の炭鉱へ勤労報国隊500人を送る計画を策定し、すでに200人が出発する | |
2月 | 市内で味噌・醤油の切符配給を開始する | |||
8月 | 松山国民職業指導所所管内の炭鉱勤労報国隊62人及び別子銅山勤労報国隊5人が出発する | |||
大政翼賛会松山支部、官公庁の土曜半休・日曜日の休日廃止を決定する | ||||
10月 | 越智孝平、第12代松山市長に就任する | |||
11月 | 松山高等学校・松山中学校など市内中等学校6校生徒1140人、温泉郡農村へ3日間ずつ稲刈りの勤労奉仕を行う | |||
12月 | 松山市老年報国会結成発起人会を婦人会館で開催する | |||
1943年 | 昭和18年 | 3月 | 愛媛県防空学校を設立する(築山町) | |
4月 | 金属供出代金記念貯蓄をこの日より実施する | |||
市、市役所執務中の吏員に男子は巻脚袢・女子はモンペ着用を指令する | ||||
7月 | 市、戦時生活基準所帯所要経費を発表する(5人家族の食費、1カ月36円68銭) | |||
関西汽船「浦戸丸」鹿島沖で沈没、死者・行方不明223人 | ||||
10月 | 海軍基地戦闘機隊263航空隊(零戦・通称豹部隊)を吉田浜に開設する | |||
松山海軍航空隊(甲種飛行予科練習生の養成機関)を吉田浜に開設し、教育訓練を開始する | ||||
市役所に臨時徴兵署を開設、学徒に対する徴兵検査を実施する(~27日) | ||||
倉敷紡績松山工場を松山兵器製作所に転換し、呉海軍工場協力工場として魚雷製造を開始する | ||||
11月 | 東京大相撲(双葉山・照国・前田山)らを松山城北練兵場で開催する | |||
1944年 | 昭和19年 | 2月 | 臨時国勢調査で松山市世帯数30530・人口120091人となる | |
陸軍第3航空教育隊、松山市堀之内に移駐し、教育訓練を開始する | ||||
3月 | 松山国民勤労動員署が発足する | |||
愛媛合同新聞、愛媛新聞と改称する | ||||
松山市と道後湯之町。垣生村・生石村の編入合併が告示される(4月1日施行、人口132269人) | ||||
市内の国民学校、日曜日の授業を実施する(全国最初) | ||||
6月 | 丸善石油株式会社松山製油所が操業を開始する(大可賀) | |||
9月 | 大阪市内の国民学校の児童2608人、松山市の寺院・公会堂など65か所に集団疎開する | |||
洗濯石鹸、ちり紙などの配給制を実施する | ||||
12月 | 海軍343航空隊(紫電・紫電改・源田実司令)を松山飛行場で編成する | |||
1945年 | 昭和20年 | 2月 | 伊予鉄高浜線、レール供出のため単線運転を開始する | |
3月 | 米軍艦載機1機、松山航空隊を爆撃する | |||
道後温泉、夜間営業を停止する | ||||
4月 | 鈴木貫太郎内閣が成立する | |||
5月 | 米軍機B29約100機、松山上空に飛来する | |||
6月 | 松山挺身義勇隊を結成する | |||
7月 | 7月26日、米軍B29約60機が城北地区より爆襲を開始する(道後・新玉・立花・旭町・小栗・持田各町の一部と三津浜、農村部を残して焦土と化す。死者251人、罹災戸数14300戸、罹災市民62200人) | |||
中島諸村、米機の銃撃をうける | ||||
8月 | 米軍艦載機垣生地区空襲、機銃掃射・焼夷弾攻撃により死者3人、行方不明1人、火災民家3軒をだす | |||
8月15日終戦、17日東久邇宮稔彦内閣が成立する | ||||
9月 | 重光・梅津全権委員、米艦ミズリー号上で降伏文書に調印する | |||
市内にリンタクが出現する | ||||
10月 |
連合国軍の四国進駐を松山市に決定する。連合国軍先遣隊デッカーソン少佐以下35名が来松し駐屯地・宿所などを視察する | |||
市内に疎開していた大阪市の国民学校児童が離松する | ||||
米第24師団(師団長ウッドラフ少将)の将兵約1万人、梅津寺・三津浜・吉田浜海岸に上陸し、接収予定地に進駐する(旧海軍航空隊基地・陸軍堀之内兵営・城北練兵場・愛媛師範・新田中学校・久松邸・県立図書館・県庁・市庁の一部ほか)県立図書館・市庁舎の一部を進駐軍司令部に当てる(この日市内の学校児童生徒・女教員登校停止~24日) | ||||
11月 | 全国人口調査で松山市世帯数28012、人口117396人となる | |||
松山市戦災復興大会を開催する | ||||
12月 | 国立松山病院、二之丸旧陸軍病院跡に開院する | |||
市、魚と野菜の配給制を廃止する | ||||
市役所前に集まり配給問題で抗議中の市民1000人、進駐軍に解散させられる(全国初のMP介入) |
お問い合わせ
文化財課(文化財保護担当)
〒790-0003 愛媛県松山市三番町六丁目6-1 第4別館2階
電話:089-948-6603