室町時代から安土・桃山時代
更新日:2012年3月1日
松山の歴史
時代 | 年代 | 松山のできごと、その関連事項 | ||
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西暦 | 和暦 | 月 | ||
室町時代 | 1393年 | 明徳4年 | 12月 | 足利義満、大内義弘を一族の扱いとする |
1394年 | 応永1年 | 11月 | 河野通義、足利義満に願い出て、弟・通之に伊予の守護職・本領知行を承認される | |
1395年 | 応永2年 | 4月 | 河野通之、善応寺領の給人が百姓を苦しめることを禁じる | |
1398年 | 応永5年 | 4月 | 河野通之、善応寺に越智郡久松などの寺領の所有を承認する | |
1399年 | 応永6年 | 10月 | 大内義弘、足利義満に背いて兵を率い和泉国堺城に拠る | |
11月 | 河野氏、足利義満が大内義弘を討つため従軍する | |||
12月 | 幕府軍、堺城を陥れ、大内義弘が戦死する(応永の乱) | |||
1400年 | 応永7年 | 3月 | 足利義満、細川頼長に伊予国等の所領を承認する | |
11月 | 伊予守護河野通之、今岡・宮内らの海賊が越智郡大島を侵すのをやめさせるよう幕府から命じられる | |||
1404年 | 応永11年 | 2月 | 河野通之、善応寺に浴室料として田地を寄進する | |
1405年 | 応永12年 | 6月 | 河野犬王丸(通久)、善応寺に和気郡吉原郷地頭職を寄進する | |
1409年 | 応永16年 | 1月 | 河野通之、兄・通義の遺言によって家督を河野通久(通義の子)に譲る | |
1414年 | 応永21年 | 10月 | 河野通久、忽那通経に本知行地を承認する | |
1415年 | 応永22年 | 7月 | 河野通之、家司・重見通勝と温泉郡御幸寺で戦い敗死、次いで子・通元ら重見氏を日高山城に攻めて自殺させる | |
1417年 | 応永24年 | 12月 | 河野通元、忽那通経に和気郡久枝六郎左衛門名田職などの領有を承認する | |
1418年 | 応永25年 | 9月 | 河野通久、忽那通経に忽那島本知行分半分を領知させる | |
1419年 | 応永26年 | 10月 | 河野通久、中島・長隆寺の寺領を承認する | |
河野通元、忽那通経に忽那島本知行分などを承認する | ||||
1427年 | 応永34年 | 10月 | 幕府、赤松満祐を討伐する(応永の乱) | |
1431年 | 永享3年 | 3月 | 二神家経ら、二神八幡宮に大般若経をおさめる | |
1434年 | 永享6年 | 10月 | 河野通久、風早郡善応寺に寺領を承認する | |
11月 | 河野通久、善応寺に禁制を掲げる | |||
1435年 | 永享7年 | 6月 | 河野通久、周防の大内持世の軍に味方して豊後の大友持直を攻め、姫嶽城で戦死する | |
1438年 | 永享10年 | 8月 | 幕府、綸旨を奉じて諸国の武将に足利持氏に討伐を命じる(永享の乱) | |
1439年 | 永享11年 | 3月 | 河野教通、西園寺公広とともに大和国越智維通を討つために同国吉野山に至る | |
1440年 | 永享12年 | 8月 | 河野教通、足利義教から近江国馬渕庄北の地を与えられる | |
1441年 | 嘉吉1年 | 6月 | 赤松満祐、足利義教を誘って殺し、播磨に下る(嘉吉の乱) | |
7月 | 河野教通・西園寺公広ら、赤松満祐を討つため、京都から播磨国へ向かう | |||
1444年 | 文安1年 | 8月 | 河野教通、忽那通定に中島東分の検断職を承認する | |
1445年 | 文安2年 | 3月 | 湯築城主・河野教通を願主に連歌が催され大山祇神社に奉納する | |
1450年 | 宝徳2年 | 8月 | 幕府、河野教通を伊予国守護に任じ、小早川盛景らを援助させる | |
1451年 | 宝徳3年 | 8月 | 幕府、国分寺・善応寺に禁制を掲げる | |
1454年 | 享徳3年 | 12月 | 足利成氏、執事上杉憲忠を誘って殺す(享徳の乱) | |
1455年 | 康正1年 | 12月 | 幕府、細川勝元を伊予国守護とする | |
1456年 | 康正2年 | 4月 | 河野教通、重見通実と越智郡菊間に逃れる | |
1461年 | 寛正2年 | この年、飢饉起こり、疫病も流行し、京都に窮民・餓民が集まる(寛正の大飢饉・中世最大) | ||
1464年 | 寛正5年 | 7月 | 河野通秋、忽那通賢に中島東分検断所を承認する | |
11月 | 幕府、長門国守護・大内教弘に伊予国・河野通春を討つように命じる | |||
1465年 | 寛正6年 | 6月 | 大内教弘、兵を率いて伊予に来て、ひそかに河野通春を援ける | |
9月 | 河野通春・大内政弘の兵、細川勝元の軍と湯築城などで戦う | |||
大内教弘、伊予国・興居島で病没する | ||||
安土・ 桃山時代 |
1467年 | 応仁1年 | 5月 | 山名持豊・畠山義秀・斯波義廉ら挙兵して京都に入り、細川勝元ら応戦する(応仁の乱起こる) |
7月 | 河野通春、摂津国東軍の赤松勢を破って入京する | |||
12月 | 河野教通ら、大山祇神社・善応寺に禁制を掲げる | |||
1468年 | 応仁2年 | 2月 | 河野教通、忽那通光に兄・通賢の所領を継がせ、忽那島東浦検断職を与える | |
1473年 | 文明5年 | 11月 | 足利義政、河野教通を伊予国守護職に任じる | |
河野一族のうちわもめ続く | ||||
1477年 | 文明9年 | 11月 | 土岐成頼、足利義視を奉じて美濃国に帰り、大内政弘・畠山義統らも領国に帰る(応仁の乱、一応終わる) | |
1478年 | 文明10年 | 10月 | 河野通春、同族の河野通秋と戦い、大内政弘に援助を求める | |
1479年 | 文明11年 | 4月 | 河野通春、風早郡善応寺に禁制を掲げる | |
この年、細川義春、阿波・讃岐勢を率いて伊予国を攻めるが、河野通生・勝生ら防戦して退ける | ||||
1481年 | 文明13年 | 5月 | 河野教通、石手寺本堂など改修、石手寺、道後温泉を管理 | |
11月 | 河野教通、久米郡日尾神社に禁制を掲げる | |||
1485年 | 文明17年 | 12月 | 山城の国人ら、両畠山の軍勢の撤兵を要求する(山城国一揆) | |
1489年 | 延徳1年 | 2月 | 河野通宣、二神通範に二神家真の家督を相続させる | |
1500年 | 明応9年 | 1月 | 河野教通、湯築城で病死(河野氏宗家を継承した武将)し、その子・通宣が跡を継ぐ | |
1502年 | 文亀2年 | 9月 | 河野通宣、風早郡善応寺に禁制を掲げる | |
1503年 | 文亀3年 | 8月 | 河野通宣、平岡下総守の謀反により湯築城を去って風早郡難波村に退去する | |
1505年 | 永正2年 | 12月 | 河野通宣、忽那通光に忽那島代官職を承認する | |
1519年 | 永正16年 | 4月 | 河野通宣(刑部大輔)来島城で病死し、その子・通直が跡を継ぐ | |
1523年 | 大永3年 | 8月 | 河野通直、忽那島・長隆寺の住職・寺領を承認する | |
1525年 | 大永5年 | 2月 | 三河国の四国遍路、久米郡浄土寺を巡礼する | |
1526年 | 大永6年 | 7月 | 河野通宣、風早郡・善応寺の寺領を承認し、陣僧役を免除する | |
1531年 | 享禄4年 | 6月 | 河野通宣、上洛する日に細川高国の敗死を聞き細川晴元に降る | |
1533年 | 天文2年 | 2月 | 河野通宣、弾正少弼に任じられ、将軍・足利義晴に礼物を進上する | |
1539年 | 天文8年 | 7月 | 河野通宣、温泉郡石手寺地蔵院信憲に同院、中林房等を支配させる | |
1540年 | 天文9年 | 4月 | 河野通宣、幕府の相伴衆に加えられ、礼物を進上する | |
1542年 | 天文11年 | 3月 | 河野晴通、二神弥五郎の所領を認める | |
4月 | 河野晴通、今岡・村上・岩城らに命じて大内義隆の軍を中島棚林城で撃退する | |||
7月 | 幕府、大友義鑑に命じて河野通直とその子・河野晴通との不和を和解させる | |||
1543年 | 天文12年 | 3月 | 河野晴通、風早郡善応寺の寺務職を承認する | |
4月 | 河野晴通、湯築城で没する | |||
1544年 | 天文13年 | 6月 | 河野通直、温泉郡石手寺地蔵院深宗に同院、中林房等を管理させる | |
1546年 | 天文15年 | 7月 | 河野通直(弾正少弼)、二神通範に父・信濃守の所領等を承認する | |
1547年 | 天文16年 | 3月 | 河野通直(弾正少弼)、二神源四郎に和気郡内の土地を与える | |
1551年 | 天文20年 | 2月 | 河野通直(弾正少弼)、二神兵庫助に二神島作職を与える | |
1552年 | 天文21年 | 8月 | 河野通宣、二神左衛門尉に風早郡粟井郷段役職を与える | |
11月 | 河野通宣、二神源三郎に和気郡久枝郷内友近名を与える | |||
1553年 | 天文22年 | 10月 | 河野通宣、風早郡善応寺の寺領支配を承認する | |
1554年 | 天文23年 | 9月 | 河野通宣、平岡房実に命じて久米郡岩伽羅城主・和田通興を討たせる | |
1555年 | 弘治1年 | 10月 | 村上通康ら、三島(能島・来島・因島)の兵船を率いて毛利元就を助け陶晴賢を安芸国厳島に襲撃する | |
12月 | 河野通宣、温泉郡五明の崇福寺に禁制を掲げる | |||
1557年 | 弘治3年 | 3月 | 毛利隆元ら、大内義長を追討するにあたって、河野氏警護衆来島勢の援助を謝する | |
1558年 | 永禄1年 | 9月 | 村上(来島)通康、温泉郡石手寺の寺務を承認する | |
1559年 | 永禄2年 | 10月 | 河野通宣、友近与一左衛門に温泉郡桑原郷絹山・久米郡古川等の所領を承認する | |
1560年 | 永禄3年 | 10月 | 幕府、河野通宣を左京大夫に任じる | |
1562年 | 永禄5年 | 12月 | 河野通直(弾正少弼)、温泉郡石手寺僧侶の入浴日を定める | |
1565年 | 永禄8年 | 6月 | 大友義鑑の武将・星野黒木らの兵、伊予郡松前・今出等に来襲したため河野の将兵がこれを撃退する | |
1567年 | 永禄10年 | 4月 | 河野通宣、温泉郡石手寺の由来書・寺領・寺宝等の目録を作成する | |
10月 | 村上通康、没する(来島水軍の全盛時代を築いた来島城主) | |||
1568年 | 永禄11年 | 2月 | 河野通宣引退し、子・牛福丸(通直)元服して兵部大輔兼伊予守となる | |
1570年 | 元亀1年 | 12月 | 越智郡来島の村上通総、河野通直に背く | |
河野通直(弾正少弼)、二神重成に風早郡粟井の地を与え、通総と絶交させる | ||||
1572年 | 元亀3年 | 7月 | 毛利輝元の部下・苫西津高ら、三津浜に来攻したのを伊予勢がこれを撃退する | |
8月 | 河野通直(弾正少弼)没する(河野氏正系の武将) | |||
12月 | 織田信長の将・山岡対馬守ら風早郡に来襲、大野直昌・土居清良(宇和郡大森城主)らが防戦する | |||
1573年 | 天正1年 | 7月 | 室町幕府滅亡する | |
1574年 | 天正2年 | 3月 | 河野通直、京都奪還を目指す足利義昭の協力要請を受ける | |
1576年 | 天正4年 | 5月 | 河野通直、足利義昭から入京のための協力要請を受ける | |
1577年 | 天正5年 | 6月 | 織田信長、右大臣となる | |
1580年 | 天正8年 | 1月 | 喜多郡の大野直之、長宗我部に内応し、河野通直に叛く | |
1581年 | 天正9年 | 7月 | 河野通宣(左京大夫)、湯築城で没する | |
豊臣秀吉、四国を攻める | ||||
1585年 | 天正13年 | 6月 | 小早川隆景、毛利軍を率いて伊予にわたる | |
7月 | 豊臣秀吉、関白となる | |||
7月29日~9月6日の間、河野通直、湯築城にたてこもり毛利軍とたたかう | ||||
河野通直、豊臣秀吉の伊予征討軍小早川隆景の軍門に降る | ||||
8月 | 豊臣秀吉、伊予国の35万石を小早川隆景に、23000石を安国寺恵瓊に、来島通総に14000石を分け与える | |||
河野氏、滅びる | ||||
1586年 | 天正14年 | この年、ルイス・フロイス、小早川隆景の城を訪ねる | ||
1587年 | 天正15年 | 6月 | 小早川隆景、筑前国へ転封される | |
7月 | 河野通直(牛福丸)、安芸国竹原で没する | |||
戸田勝隆、風早郡島嶼部の検地を行う(太閤検地) | ||||
8月 | 豊臣秀吉、福島正則に伊予5郡11万石を与える | |||
1588年 | 天正16年 | 8月 | 福島正則、湯築城20万石を領して入部する | |
1590年 | 天正18年 | 9月 | 豊臣秀吉、京都に凱旋する(全国統一) | |
1592年 | 文禄1年 | 1月 | 豊臣秀吉、朝鮮派遣軍の部署を定める(文禄の役) | |
3月 | 福島正則、朝鮮に出兵する | |||
4月 | 加藤嘉明・藤堂高虎ら、豊臣秀吉の命により朝鮮に渡る | |||
1595年 | 文禄4年 | 7月 | 福島正則、尾張清洲に移される | |
加藤嘉明、伊予国久米・温泉・野間・伊予4郡内で6万石を与えられ、浮穴・和気・温泉・伊予4郡内の蔵入代官を命じられる | ||||
この年嘉明、伊予正木城を築く | ||||
1597年 | 慶長2年 | 2月 | 豊臣秀吉、朝鮮再遠征軍の部署を定める(慶長の役) | |
1598年 | 慶長3年 | 5月 | 加藤嘉明、永年の戦功により10万石に加増される |
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