夏目漱石の松山滞在
夏目金之助、後の夏目漱石が松山中学の英語教師として松山に来たのは道後温泉本館が改築された翌年、明治28年4月9日。
それから1か月後、友人にあてた手紙の中で漱石は
「道後温泉はよほど立派なる建物にて8銭出すと3階に上がり、茶を飲み、菓子を食い、湯に入れば頭まで石鹸で洗ってくれるというような始末、随分結構に御座候」
と、道後温泉本館を大変気に入った様子を書き送っています。
その後漱石は、病気療養のため帰省していた正岡子規と50日余り同居生活し、子規や高浜虚子と道後温泉に出かけています。
道すがら交わした文学論や俳句は、英語教師・夏目金之助から文豪・夏目漱石へ変身するきっかけとなります。
夏目漱石は赴任から1年後の4月に熊本第五高等学校へ転任、松山での生活はわずか1年に過ぎませんでした。
夏目漱石は明治39年、子規の弟子である高浜虚子のすすめにより、俳誌「ほととぎす」に「坊っちゃん」を掲載、後に文豪として不滅の業績を残すまでとなります。
「坊っちゃん」は一大ベストセラーとなり、「坊っちゃん」が毎日入浴し、よく泳いだ「住田温泉」は道後温泉だといわれており、道後温泉はさらに広く親しまれるようになりました。
浴室の看板
「坊っちゃん」に次の一節があります。
「(深いから)運動のために、湯の中を泳ぐのはなかなか愉快だ。おれは人のいないのを見済しては15畳の湯壺を泳ぎ巡って喜んでいた。ところがある日3階から威勢よく下りて今日も泳げるかなとざくろ口を覗いてみると、大きな札へ黒々と湯の中で泳ぐべからずとかいて貼りつけてある。」
神の湯男性の浴室にはこのエピソードから、「坊っちゃん泳ぐべからず」の貼り札がされています。
赤タオル
また「坊っちゃん」に次の一節があります。
「せっかく来た者だから毎日はいってやろうという気で、晩飯前に運動かたがた出かける。ところが行くときは必ず西洋手拭の大きな奴をぶら下げて行く。この手拭が湯に染った上へ、赤い縞が流れ出したのでちょっと見ると紅色に見える。」
現在、道後温泉本館の貸タオルや販売用タオルが赤色なのは、この一節が由来となっています。
坊っちゃんの間
昭和41年(1966年)、正岡子規や柳原極堂の生誕100年祭を催した際に、本館3階の一室を夏目漱石ゆかりの部屋として「坊っちゃんの間」と定めました。
「坊っちゃんの間」の命名は、夏目漱石の娘婿である文人・松岡譲氏です。
当時、漱石が湯上りにくつろいだといわれる場所で、室内には漱石の見合い写真や胸像などが飾られており、入館された方は自由に見学できます。