道後温泉本館の改築と伊佐庭如矢の偉業

更新日:2018年7月6日

明治(めいじ)27(ねん)道後温泉本館(どうごおんせんほんかん)改築(かいちく)

伊佐庭如矢(いさにわゆきや)は、明治(めいじ)22(ねん)町村制(ちょうそんせい)実施(じっし)により、道後湯之町(どうごゆのまち)初代町長(しょだいちょうちょう)になりました。当時(とうじ)道後温泉(どうごおんせん)建物(たてもの)老朽化(ろうきゅうか)し、改築(かいちく)しなければならない状態(じょうたい)でした。
そこで伊佐庭如矢(いさにわゆきや)は、3階建(かいだ)ての立派(りっぱ)建物(たてもの)への改築(かいちく)計画(けいかく)多額(たがく)費用(ひよう)当時(とうじ)で13(まん)5千円(せんえん))がかかることから、計画(けいかく)反対(はんたい)する住民(じゅうみん)(おお)()ました。
(かれ)住民(じゅうみん)に対し、伊佐庭如矢(いさにわゆきや)は、「100(ねん)(のち)までも他所(よそ)真似(まね)できないものを(つく)ってこそ、(はじ)めて(もの)をいう」と説得(せっとく)し、ついに本館(ほんかん)改築(かいちく)()()げました。


本館改築直後の様子

伊佐庭如矢(いさにわゆきや)偉業(いぎょう)

伊佐庭如矢(いさにわゆきや)は、現在(げんざい)松山市(まつやまし)のまちづくりに(おお)きな影響(えいきょう)(あた)えました。
その偉業(いぎょう)紹介(しょうかい)します。

松山城(まつやまじょう)廃城阻止(はいじょうそし)

明治(めいじ)6(ねん)政府(せいふ)廃城令(はいじょうれい)により松山城(まつやまじょう)()(こわ)される危機(きき)にさらされました。(けん)職員(しょくいん)であった伊佐庭如矢(いさにわゆきや)(しろ)(すく)うために、松山城(まつやまじょう)公園化(こうえんか)(うった)えて、道理(どうり)(かぎ)りを()くした請願書(せいがんしょ)起草(きそう)。その結果(けっか)松山城(まつやまじょう)公園化(こうえんか)(みと)められ廃棄荒廃(はいきこうはい)(まぬが)れました。

道後温泉(どうごおんせん)興隆(こうりゅう)

伊佐庭如矢(いさにわゆきや)町長(ちょうちょう)就任(しゅうにん)したころ、道後温泉(どうごおんせん)建物(たてもの)老朽化(ろうきゅうか)(すす)んでいました。養生湯(ようじょうゆ)改築(かいちく)にはじまり、本館(ほんかん)(かみ)湯棟(ゆとう))の改築(かいちく)(たま)()又新殿(ゆうしんでん)竣工(しゅんこう)まで10(ねん)ほどかけて(きず)()げ、現在(げんざい)のような立派(りっぱ)三階建(さんかいだて)建物(たてもの)(つく)りました。こうして道後温泉(どうごおんせん)興隆(こうりゅう)をもたらしたのです。

道後公園(どうごこうえん)整備(せいび)

道後公園(どうごこうえん)は、元来(がんらい)中世伊予(ちゅうせいいよ)守護(しゅご)河野氏(こうのし)居城(きょじょう)でしたが、廃城(はいじょう)となり、明治(めいじ)になっても()()てたまま竹藪(たけやぶ)雑木(ぞうき)()(しげ)っていました。愛媛県(えひめけん)協力(きょうりょく)しながら、ここに築山(つきやま)(きず)いて植栽(しょくさい)(ほどこ)し、園路(えんろ)をめぐらせて内濠(うちぼり)(はし)()けるなど、入浴客(にゅうよくきゃく)散策(さんさく)()になるよう整備(せいび)しました。

道後鉄道(どうごてつどう)建設(けんせつ)

松山市(まつやまし)県外(けんがい)から入浴客(にゅうよくきゃく)()()むために鉄道(てつどう)必要性(ひつようせい)(とな)えて、松山市街(まつやましがい)道後(どうご)(むす)鉄道(てつどう)敷設(ふせつ)計画(けいかく)当時(とうじ)伊予鉄道(いよてつどう)開業(かいぎょう)していましたが、道後(どうご)まで()びていなかったのです。明治(めいじ)26(ねん)道後鉄道(どうごてつどう)設立(せつりつ)明治(めいじ)28(ねん)一番町(いちばんちょう)道後間(どうごかん)道後(どうご)三津口間(みつぐちかん)運行(うんこう)(はじ)まりました。

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道後温泉事務所

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