明治27年の道後温泉本館の改築
伊佐庭如矢氏
伊佐庭如矢は、明治22年の町村制実施により、道後湯之町の初代町長になりました。当時、道後温泉の建物は老朽化し、改築しなければならない状態でした。
そこで伊佐庭如矢は、3階建ての立派な建物への改築を計画。多額の費用(当時で13万5千円)がかかることから、計画に反対する住民も多く出ました。
彼ら住民に対し、伊佐庭如矢は、「100年後までも他所が真似できないものを作ってこそ、初めて物をいう」と説得し、ついに本館の改築を成し遂げました。
本館改築直後の様子
伊佐庭如矢は、現在の松山市のまちづくりに大きな影響を与えました。
その偉業を紹介します。
松山城の廃城阻止
当時の松山城
明治6年、政府の廃城令により松山城は取り壊される危機にさらされました。県職員であった伊佐庭如矢は城を救うために、松山城の公園化を訴えて、道理の限りを尽くした請願書を起草。その結果、松山城の公園化が認められ廃棄荒廃を免れました。
当時の道後温泉
伊佐庭如矢が町長に就任したころ、道後温泉の建物は老朽化が進んでいました。養生湯の改築にはじまり、本館(神の湯棟)の改築、霊の湯、又新殿の竣工まで10年ほどかけて築き上げ、現在のような立派な三階建の建物を作りました。こうして道後温泉の興隆をもたらしたのです。
当時の道後公園
道後公園は、元来中世伊予の守護・河野氏の居城でしたが、廃城となり、明治になっても荒れ果てたまま竹藪や雑木が生い茂っていました。愛媛県と協力しながら、ここに築山を築いて植栽を施し、園路をめぐらせて内濠に橋を架けるなど、入浴客の散策の場になるよう整備しました。
当時の道後鉄道
松山市と県外から入浴客を呼び込むために鉄道の必要性を唱えて、松山市街と道後を結ぶ鉄道の敷設を計画。当時、伊予鉄道が開業していましたが、道後まで伸びていなかったのです。明治26年に道後鉄道を設立、明治28年に一番町~道後間、道後~三津口間の運行が始まりました。