清水ふれあいセンター
更新日:2024年4月1日
施設概要
清水ふれあいセンターの外観
施設
- 大ホール(洋室) 80人収容 1室
- 会議室(洋室) 20人収容 1室
- 調理室 5人収容 1室
駐車場
- 4台可
アクセス方法
- 市内電車城北線、清水町駅下車、徒歩約3分
設置年月日 | 昭和44年4月1日 |
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施設の建築(改築)年月日 | 平成27年4月1日 |
施設の構造 | 木造2階建 |
敷地面積 | 362平方メートル |
建坪面積 | 193平方メートル |
地図
活動状況
相談活動
人権・教育・福祉・生活の相談について、随時受け付けています。
広報・啓発活動
人権啓発講演会や人権学習会等を実施しています。清水地区人権教育推進協議会、清水公民館と共催で実施している「清水地区人権教育研究大会」では、小中学校生徒の人権啓発ポスター・標語・作文を募集して優秀作品の市長表彰を行っています。
教養・文化活動
地域のコミュニティーセンターとして、ダンスや民踊、コーラスや絵手紙などの教室やクラブ活動が行われ、地域の交流の場となっています。
清水ふれあいセンターがある清水町の概要
当地区は、松山城のすぐ北に位置し、新興住宅が立ち並ぶ住宅街にあります。また近くには愛媛大学、松山大学などがあり学生の多い町でもあります。
そして御幸寺山山麓には、護国神社・種田山頭火の一草庵をはじめ由緒ある寺社が多く立ち並び、ロシア人墓地・孝子十六日桜、さらには伊予節にも歌われている紫井戸や片目鮒等々史跡がたくさんあり、大変環境に恵まれたところです。
地域の名所・風物詩・民話など
- ロシア兵墓地
明治37から38年の日露戦争で、ロシアの傷病兵や捕虜が、延べ6千余人も松山へ送られてきました。松山では、公会堂や城北練兵場のバラックや、寺町の各寺へ収容されました。
「捕虜は罪人ではない、祖国のために奮闘して敗れた心情をくみとって、一時の敵愾心にかられて、屈辱を与えるような行為は慎め。」
と県は県民に訓告を発し、捕虜に接する態度のあり方を指示しました。捕虜兵の「博愛処遇」は県民に徹底し、捕虜の待遇は寛大で記録によれば、半径1里以内の自由行動、将校の市内居住の許可、散歩、海水浴、芝居見物、道後温泉への入浴などが認められ、捕虜兵とは考えられないほどの扱いを受けていました。
松山での治療看護や待遇のよいことが戦線に聞こえ、ロシア兵が「マツヤマ!!マツヤマ!!」と叫んで両手をあげて投降するほどだったそうです。しかし薬石効なく、看護婦の献身的な看護のかいもなく、ワシリーボイスマン大佐を始め98名の方々は、祖国に帰ることもなく異郷で世を去りました。そして、墓碑は来迎寺の裏の妙見山に葬られました。祖国、北向きに墓碑は建てられています。
- 紫井戸と伊予節
昭和の始めごろまで水が満々として澄んでいて、時刻によっては紫に見えたので紫井戸と言ったとも、水質がよく昔醤油造りに使ったので、醤油の別名むらさきを取って紫井戸と言ったとも言われています。井戸の大きさや石組みをみただけで、普通の井戸ではなかったと思われます。このように有名になったのは伊予節に歌われたからです。
伊予の松山名物名所 三津の朝市道後の湯
音に名高き五色素麺 十六日の初桜
吉田さし桃こかきつばた
高井の里のていれぎや 紫井戸や片目鮒
薄墨桜や緋の蕪 チョイト伊予絣
- 片目鮒の井戸
昔、弘法大師(宝亀五から承和二(七七四~八三五))が巡礼の途中ここを通りかかった時、1人の老人が今取ってきたばかりの鮒を焼いていました。大師は哀れに思い、その鮒を譲り受け手に取ってみると、すでに片目が焼けていました。そっと井戸の中に放してやると、みるみる元気になり泳ぎだしました。それ以来この井戸の鮒は代々みんな片目とのことです。この井戸と紫井戸は小川でつながっていて、鮒は自由に行き来していたそうです。現在どちらの井戸も水はありません。家陰でそっと昔を偲んでいるかのようです。
お問い合わせ
人権・共生社会推進課 清水ふれあいセンター
〒790-0823
愛媛県松山市清水町一丁目9番地9
電話:089-924-0864