ロシア兵墓地

更新日:2022年4月1日

位置図

所在地 松山市御幸1丁目531番地2
墓  碑 98柱(他にアメリカ兵、ドイツ兵の墓碑2基も建立されている。) 

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概要

 松山には日露戦争が始まった1904年(明治37年)に全国初の捕虜収容所が設けられ、捕虜が収容されました。松山が捕虜収容所となった理由としては諸説ありますが、高浜が瀬戸内海のおだやかな港であり、輸送に便利なこと、気候が温暖であること、港から街まで鉄道があったことなどが挙げられます。
捕虜は公会堂や寺院に収容され、かつて松山市文京町にあった第22連隊城北練兵場(現愛媛大学城北キャンパス、松山大学文京キャンパス、松山赤十字病院、松山市立東中学校周辺)には26棟の病棟が建てられました。
 110数回に及ぶ捕虜輸送船により松山に収容された捕虜の数は、延べ6,000人に達したと言われ、多い時には4,000名を超える捕虜が松山にいたと言われています。(当時の松山市の人口は約30,000人)
捕虜兵の博愛処遇は県民に徹底されており、外出は自由で温泉、観劇等を楽しみました。その噂はロシア兵の間で広まり、ロシア兵が投降するときには、“マツヤマ”と叫んだとも伝えられています。
 捕虜の中で、負傷し懸命の看護の甲斐なく異国の地で生涯を終えたワシリー・ボイスマン大佐ほか捕虜97名を埋葬しているのがロシア兵墓地です。墓碑は祖国を望むように北向きに建てられています。なお、埋葬者の出身地は、当時の広大なロシア帝国の各地におよんでおり、ロシアやポーランドに限らず、現在のウクライナ、ベラルーシ、バルト諸国、中央アジア諸国が含まれています。


ロシア兵墓地

ロシア兵墓地慰霊祭

 昭和36年から毎年慰霊祭を開催しております。現在は勝山中学校の3学期終業式に併せて3月下旬に開催しており、在大阪ロシア連邦総領事館総領事、勝山中学校生徒会を初め、清掃活動等を行っている団体を来賓として招いています。

お問い合わせ

公園緑地課 総務担当

〒790-8571 愛媛県松山市二番町四丁目7-2 本館7階

電話:089-948-6094

E-mail:kouen@city.matsuyama.ehime.jp

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