松山と俳句の歴史
更新日:2012年7月5日
松山と俳句の歴史について
俳句の基本は、お互いに車座になり、各自が投句することから始まります。久松松平初代藩主定行は、身分を超えて御用商人と座を同じくし、滑稽とおかしみのある俳諧を楽しみました。元禄時代、4代藩主の定直は芭蕉門の
町方大年寄役を務めた
明治時代になると、正岡子規の俳句革新運動が興ります。俳諧から発句が独立し、新しい俳句が生まれました。子規門の
松山出身の
江戸、明治、昭和の三庵(庚申庵 、愚陀佛庵 、一草庵 )
庚申庵(江戸時代)
樗堂は、江戸時代の松山俳諧中興の祖といわれます。家業の酒造業「
愚陀佛庵(明治時代)
松山中学に赴任した
明治28年(1895年)、松山中学の英語教師として赴任した漱石にとって、松山は居心地のいい場所ではありませんでした。親友正岡子規の帰省を契機に、二人は52日間共同生活を送り、日本文学を興隆しようと語り合ったといいます。子規のもとに松山松風会の連中が日参する中、漱石も「愚陀佛」と名乗り、俳句を志します。
愚陀仏庵の1階部分が復元されています。
一草庵(昭和時代)
子規の弟子・河東碧梧桐の流れを汲む荻原井泉水門下の自由律俳句の俳人。同じ井泉水門下の尾崎放哉と並び称されます。酒をこよなく愛し、世間や家族を捨て、行乞と支持者の援助によって生きる山頭火は、放浪の末に、安住の地を松山に求め、この庵に入りました。この草庵には、一見自堕落に見える日常とは裏腹に、感じたままに形式にこだわることなく吐き出される山頭火の自在な表現が、人間の生命の叫びとなってこだましてきます。
「おちついて死ねそうな草枯るる 山頭火」
松山と三庵年表
時代 | 西暦 | 元号 | できごと |
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江戸時代 | 1749年 | 寛延2年 | 栗田樗堂、松山城下北松前町(今の松山市松前町)の酒造業の三男に生まれる |
1765年 | 明和2年 | 樗堂、松山城下南松前町(今の松山市松前町)の酒造業栗田家の養子になる | |
1784年 | 天明4年 | 落雷により松山城天守焼失 | |
1795年 | 寛政7年 | 小林一茶が樗堂を訪れる。翌年再来 | |
1800年 | 寛政12年 | 樗堂、「庚申庵」を建てる | |
1803年 | アメリカ船長崎に来航 | ||
1807年 | 文化4年 | 樗堂、御手洗(今の広島県大崎下島)に移る | |
1814年 | 文化11年 | 樗堂、御手洗の二畳庵で没する | |
1867年 | 慶応3年 | 1月5日(陽暦2月9日)、夏目漱石生まれる |
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明治時代 | 1871年 | 廃藩置県 | |
1880年 | 明治13年 | 子規、松山中学(現・松山東高)入学 | |
1882年 | 明治15年 | 12月3日、種田山頭火、山口県で生まれる | |
1884年 | 明治17年 | 子規・漱石、東京大学予備門へ入学 |
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1892年 | 明治25年 | 子規、日本新聞社入社 | |
1894年 | 日清戦争 | ||
1895年 | 明治28年 | 4月、子規 日清戦争に記者として従軍し、漱石 愛媛県松山尋常中学に赴任する |
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1896年 | 明治29年 | 子規庵で句会。漱石、第五高等学校に赴任する | |
1902年 | 明治35年 | 種田山頭火、早稲田大学に入学 |
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1904年 | 明治37年 | 日露戦争 |
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大正時代 | 1914年 | 第一次世界大戦 | |
1916年 | 大正5年 | 12月9日、夏目漱石没する | |
1925年 | 大正14年 | 山頭火、出家後、西日本を旅し句作を行う | |
昭和時代 | 1939年 | 昭和14年 | 第二次世界大戦 |
1940年 | 昭和15年 | 10年11月、山頭火「一草庵」で没する | |
1946年 | 日本国憲法を公布 |
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