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釣島灯台旧官舎

更新日:2012年4月10日

釣島灯台旧官舎のご案内

釣島灯台吏員退息所及び倉庫 2棟
釣島灯台吏員退息所及び倉庫 2棟

概要

釣島灯台旧官舎は、松山市有形文化財に指定されている貴重な文化財です。
敷地内での見学は自由となっておりますが、この文化財を広く知っていただくために広報紙を通じて参加者を募集し、灯台旧官舎の内部公開を行っています。

釣島灯台旧官舎の所在地

松山市泊町1433番地2(外観見学自由)
※三津浜港発、高浜港経由の西中(中島)行きフェリーで釣島港で下船。港から灯台まで歩いて約20分。

見学に際しての注意事項

釣島(遠景)
釣島

  • 釣島灯台旧官舎敷地内での外観見学は自由ですが、原則、公開日以外は内部を見ることはできません。
  • 灯台は海上保安庁所管の現役施設ですので、事故の無いようご注意願います。
  • 文化財を保護するため敷地内は火気厳禁となっております。また、発生したごみは各自でお持ち帰りください。
  • 旧官舎裏側に簡易トイレを設置してありますが、フェリーや港のトイレのご利用をお勧めします。
  • フェリーは朝・夕の1日2便ありますが、朝出発しても夕方(滞在時間約6時間)まで帰る便はありません。
  • 島内には食堂、宿泊施設等はありません。(港の近くに自販機が設置されています。)

公開事業への申込方法

広報『まつやま』において、詳細が決まり次第、開催日及び申込方法等についてお知らせします。

釣島灯台旧官舎・倉庫〜復元のおはなし〜

釣島灯台旧官舎の復元に寄せて

 「釣島灯台旧官舎・倉庫」は、平成7年(1995年)、当時の大蔵省から土地と建物の払い下げを受け、自治省の地域文化財保全事業として平成7年度から平成9年度の3か年をかけて保存整備いたしました。
 この旧官舎・倉庫は、灯台本体とともに愛媛県内最初の西洋式灯台施設として、英国人技師リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計により明治6年(1873年)に建築されたもので、建築史や郷土史において貴重な文化遺産といえます。
 官舎は、新しくは「吏員退息所」と呼ばれ、現在、松山市指定文化財の名称もこれを採用しておりますが、創建当初は「官舎」と呼ばれていたことから、往時の姿に復原したことを契機に、呼称を「釣島灯台旧官舎」として公開しています。

 釣島という離島である現地での復原、保存ができましたことは、海上保安庁、文化庁をはじめ、釣島の方々や文化財を愛する幅広い市民のお力添えによるものと、深く感謝いたしております。

釣島灯台旧官舎・倉庫のこと

復元(解体修理)工事前〔平成6(1994)年〕
復元(解体修理)工事前〔平成6(1994)年〕

 明治6年(1873年)に竣工。釣島灯台に付帯して建てられた灯台職員用の宿舎・倉庫である。設計はリチャード・ヘンリー・ブラントン。彼は明治元年(1868年)、イギリスより来日した「御雇外人教師」のひとりである。

 釣島は松山市の西約5kmの海上に浮かぶ周囲約2,6km、標高152mの涙形をした小さな島である。灯台はこの島の北西、海抜60mの斜面中原に位置し、みかんとびわ畑に囲まれて建っている。
 眼下の釣島海峡は、大陸方面から神戸・大阪方向に向かう船にとって、来島海峡をはじめ多くの島々が点在する瀬戸内海の難所の西側入り口にあたる。釣島灯台は大型船舶がひっきりなしに通う海上に、毎日日没から日の出まで白と赤交互の閃光を放ち続ける。

 官舎は花崗岩組積造、寄棟造桟瓦葺平屋建。小屋組は木造のクィーンポスト・トラス、梁行き約11m余りを陸梁で飛ばしており、内部には構造壁がない。中央に廊下を配し、両側に居室を設ける。内装は床が総檜張りの上に茣蓙敷き、壁は漆喰仕上げ、幅木・開口部まわりの額縁・羽目板等の化粧木部はすべてペンキの木目塗りとなっている。四隅の部屋には暖炉が置かれ、屋根には4本の煙突が突き出る。

 明治6年、初点灯時の灯台長はお雇い外国人。室内には解体調査時に発見された壁下張りの文書から、ベッドや洗面台等洋式の家具・調度が置かれていたことがわかった。ただし、屋根は当初は片流れであったが、後世、寄棟造に変更、和小屋に改造されたようである。台所(当初は庖厨と呼ばれる)、倉庫、浴室、洋・和式便所が置かれる。

復元工事完了後〔平成10(1998)年〕
復元工事完了後〔平成10(1998)年〕

 昭和30年代に入り灯台の機械化が進むと、離島や遠隔地にある灯台は無人化されるようになり、各地の灯台の官舎は居住施設としての機能を失い、その多くが撤去もしくは機械室・倉庫等へ転用されたが、釣島灯台官舎は、無人となった昭和38年(1963年)から手つかずのまま遊休施設となっていた。

 現在、日本各地に立つ灯台は3,300か所にのぼる。そのうち明治時代に建設されたもので現役は67か所あるという。釣島灯台は建設年代順で9番目となるが、明治初期の官舎が後世の大きな改造もなく現地で当初の姿を保っているのはここ釣島灯台のみである。

 これらの灯台の建築物は明治期に建てられたいわゆる洋風建築と違い、純然たる洋式建築である。当時の洋風建築は文字通り外観のデザインから従来の日本の建築技術の中に取り入られていったものである。これに対して、釣島灯台をはじめ、明治初期の灯台建築は、灯台の管理・運営を含めた「灯台の技術」の一部として輸入されたものである。灯台の建築は、『灯台』という極めて特殊で重要な機能と厳しい立地条件のもとで、一般の建築にはほとんど影響を与えることなく存在し続けてきた。

 建物の見所は、クィーンポスト・トラスの小屋組、内部の木目塗り、多く残る輸入ガラス等、挙げたらきりがないが、建物を背に、木柵に寄りかかりながら見る真っ赤に染まった瀬戸内海の夕景もまた最高である。

旧官舎・倉庫の見どころ

木目塗り

木目塗り
木目塗り

官舎の内部は廊下床面など一部を除き、幅木に至るまで木目塗りが施され、オーク(ミズナラ・ナラ)の板目、柾目がペンキで丁寧に描かれている。

木目塗り(拡大写真1)
木目塗り(拡大写真1)

木目塗り(拡大写真2)
木目塗り(拡大写真2)

暖炉

暖炉
暖炉

四隅の部屋に一基ずつ、すべて形状、模様が異なるが、外寸が同じで既製品を輸入して使用したもの。裏に製造番号、記号が刻印されている。

床下張り文書

床張りされていた文書1
床張りされていた文書

明治10年(1877年)以降、北西の1室の壁補修に使われていたもので、上には灰色ペンキが厚く塗られていた。日誌の断片、備品台帳がまとまった形で発見された。

床張りされていた文書2

床張りされていた文書3

炊事場

炊事場の様子
炊事場の様子

備品台帳によると当時は「庖厨」と呼ばれていた。日本人の使用人用の畳敷きの小部屋、流し台などを設けている。

輸入ガラス

輸入ガラス
輸入ガラス

合計108枚のガラスのうち6割以上が建築当初のもので、規則的な絡み合った波形があり、片面に小さな凹みがあるが、気泡は少なく上質である。

號笛(号笛)

號笛(号笛)
號笛(号笛)

合図のために吹き鳴らす笛である。官舎から灯台へ鉛管で通じていたものと思われる。灯台の代わりに前庭に格納庫を新設、ここに通じるよう復原している。

官舎・倉庫

官舎及び倉庫
官舎及び倉庫

中央を北面から南面まで通しの廊下とし、両側に部屋を配置。5区画に分けられるが当初の各部屋の使い方は不明。ここに記した各部屋の名称は日本人の管理になってからである。 別棟として炊事場、浴室、便所などを設けている。左手の便所は洋室、屋根は後世に現在の形に改造されている。

官舎及び倉庫 平面図
平面図

釣島灯台建設余話

 元治元年(1864年)8月、英・仏・米・蘭の4国艦隊が馬関(下関)を攻撃。その戦後処理として慶応2年(1866年)5月に4国公使と幕府との間で調印された貿易に関する協定「改税約書」において、外国貿易のために開いた港への最寄船の出入安全のために灯明台等を設置することが義務付けられた。これにより徳川幕府はまず観音崎・野島崎など8か所に灯台を建設することとし、老中松平周防守に命じて灯台建設を統轄させ、イギリス公使パークスに建設技術者の斡旋を依頼した。公使はスティブンソン兄弟を顧問技師に推薦、スティブンソンは建造主任技術者としてR.H.ブラントンとその助手2名を推挙した。また横須賀製鉄所雇いの仏人土木技師ウェルニーにも灯台建設を担当させた。

 明治元年(1868年)6月、ブラントンが助手2名を伴って来日した。新政府はこれらの計画を継承し、さらに苫ヶ島・天保山・和田岬・六連島・江埼・鍋島・釣島・部埼の8か所を追補し、順次測量を行った。釣島・鍋島は当初の計画では今治・広島の2か所が予定されたが、ブラントンの要請により変更されたようである。

 明治4年(1871年)9月、何の予告もなしに釣島に工部省所属の測量船テーボール号が訪れ、外国人技師が上陸した。釣島の開拓は文久3年(1863年)、興居島の由良・泊から7人が移住したのがはじまりであり、それまでは松山藩の放牧場であり無人島だった。灯台建設に着手したこの時期、人家は8軒。
 『古三津村庄屋御用日記』などには工部省の役人、お雇い外国人が到着することに対する注意等が見られるが、島民には知らされてなかったとみえ右往左往した様子が伝えられる。「子取りが来た」と驚いて女、子供は山林に逃げた、また代表が裃に帯刀して対応した云々とある。

 工事はブラントンの設計指導のもと、ミッチェルほか3名の助手が監督にあたった。建築資材のうち、石材は広島県の倉橋島や山口県の徳山産のものが、木材は郡中・長浜から集められた。また、機器ははるばる英国本国から運ばれ、連日、300人もの人々が作業に従事したという。

 設計工事は石工、大工等の棟梁格がヨーロッパ人であったものの、ほとんどが地元で集められた日本人であったが、計画図面通りフィート(1フィートは304.8ミリメートル、1尺が303ミリメートルであり数値的には極めて近い)を基準として施工された。往来の我が国の技法にない建築石組や内装竪羽目板の重ね目のモールディングも立派に仕上げている。ここに、新しい技術文化を習得していく、民俗のたくましいバイタリティが感じられる。
 1年8か月の工期を費やし、釣島灯台は明治6年(1873年)6月15日に初めて点灯した。瀬戸内海航路におけるその建築順位は第8番目にランクされる。外国人設計の県下唯一の建造物であり、我が国が近代国家へスタートした、その第一歩を記念するモニュメントといえよう。

復元のあらまし

<復原までの経緯と事業の経過>
  経過
明治4(1871)年9月

灯台建設工事に着手

明治4(1871)年10月

松山県より用地購入

明治6(1873)年6月

初点

明治6(1873)年7月

灯台及び官舎・倉庫が竣工

昭和38(1963)年4月

灯台が無人標識化

平成元(1989)年10月

民家博物館への譲渡移築の希望表明

平成2(1990)年1月

釣島町内会、現地保存を要望

平成2(1990)年2月

松山市文化財専門委員会、現地での復原保存を答申

平成7(1995)年1月

灯台用地の一部、旧官舎・倉庫を国から払い下げ

平成7(1995)年5月

解体格納工事に着手

平成7(1995)年6月

松山市文化財(建造物)に指定、指定名称「釣島灯台吏員退息所及び倉庫」

平成7(1995)年10月

自治省の地域文化財保全事業に指定

平成7(1995)年11月

解体格納工事が完了

平成8(1996)年6月

復原工事に着手

平成8(1996)年12月

冬期海難防止のため現場作業中止

平成9(1997)年3月

現場作業再開

平成9(1997)年5月

復原に伴う外構工事に着手

平成9(1997)年10月

復原工事・復原に伴う外構工事が竣工

平成9(1997)年11月

周辺環境整備工事に着手

平成10(1998)年3月

周辺環境整備工事に竣工

<事業費>
  金額

総 事 業 費

313,374千円

うち・解体格納工事費

64,341千円

  ・復原工事費

206,360千円

  ・周辺環境整備費

16,457千円

  ・土地購入費

2,860千円

  ・管理・事務費

23,356千円
<規模>
  面積

敷地面積(市有地)

953.120平方メートル

建設規模・官舎

170.665平方メートル

      ・倉庫

56.252平方メートル

お問い合わせ

文化財課(文化財保護担当)
〒790-0003 愛媛県松山市三番町六丁目6-1 第4別館2階
電話:089-948-6603
E-mail:kybunka@city.matsuyama.ehime.jp

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