わがまちメール 北御門跡地に案内板の設置を

意見の内容

  現在、堀之内の各所に史跡について紹介された案内板が設置されており、大変興味深く拝見しています。掲載されている古地図や発掘写真と現在の公園を見比べることができ、とても勉強になります。
 さて、旧北御門(搦手)ですが、同跡地にも同様に案内板を設置していただけないでしょうか。現在も東御門跡地には当時の石垣が残っており、案内板も設置されています。
 しかし、北御門には石垣の一つも残っておらず、また内藤鳴雪や松山史の書籍を調べても詳しく紹介されていません。北御門がいつ、なんの理由で撤去されたのか、その際の石垣はどこへ運ばれ処分されたのかを教えてください。


性別:女性
年代:20代
公開日:18年01月05日
公開番号:2339
全市 都市整備 教育・文化

意見に対する答え

 北御門の案内板を設置することについてですが、北御門についてはまだ明らかになっていない部分が多いことから、今後の調査や研究成果を受けて、設置するかどうか検討したいと考えています。
 また、北御門の撤去の経緯などについて、松山市教育委員会に問い合わせたところ次のような回答がありましたので、報告させていただきます。

松山市長 野 志 克 仁
(公園緑地課、文化財課扱い)
受付番号   595



【松山市教育委員会からの回答】
 明治5年に作成された地籍図には北御門が描かれており、翌年には「存城廃城令」により松山城自体が廃城対象となっているので、撤去されたのはこれ以降と考えられます。 
 当時、松山城を所管していた明治政府が堀之内の土地や建物を民間に払い下げていることから、このときに北御門も払い下げられ、その後撤去された可能性があります。撤去された石垣がどこに運ばれたのかは、今のところ資料がなく分かりませんが、平成18年の発掘調査で北御門の東側の石垣の一部が旧がんセンター敷地の地下に残っていることが確認されたことから、全て撤去されたわけではありません。
 また、堀之内は明治10年に陸軍丸亀連隊の分営が置かれ、戦後まで陸軍が管理しました。一方、天守を含む本丸は明治7年に公園(聚楽園)として開設され、明治20年に陸軍の管理となったことから閉園となりますが、明治43年に再び公園(松山公園)として開園されたことから、建物や石垣の大部分が撤去されず、現在まで残されています。
 なお、北御門は搦手と大手の両説あります。詳しくは、文化財課(TEL 089-948-6605)にお問い合わせください。



松山市教育委員会  教育長  藤田 仁


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