鹿島の歴史

更新日:2023年7月13日

国立公園

 鹿島は昭和31年5月に国立公園に認定されました。別名「伊予の江の島」と呼ばれています。
 山頂には、神功皇后伝説の「御野立ちの巌」(おのだちのいわお)や東海岸に「神洗磯(かみあらいいそ)」の遺跡があり、島巡りの遊歩道には、黒岩・梅の木谷・犬戻り・水晶ヶ浜・長磯・石門などの景勝地も多く、海上には、千霧(ちきり)小鹿島(こがしま)玉理・寒戸島(ぎょくりかんどじま)等が望まれます。
 島全体は老松・クスノキなど暖地性常緑照葉樹が繁茂し約260種の植物があります。古来より野生鹿(県指定天然記念物)が住みつき、現在は、柵を設けて保護飼育しています。
 山頂展望台からの眺めはすこぶる美しく、ことに「玉理・寒戸島」は毎年5月4日に長さ30m余りに及ぶ大注連縄(しめなわ)張りが行われることから「伊予の二見」の称があります。
 鹿島神社の春・秋祭例に出される「鹿島の櫂練り」(県無形民俗文化財)は、昔、河野氏の水軍が出陣のとき武運を祈り、また、戦勝祝賀に神前で演じて奉納した起源をもつ勇壮な船踊りで絢爛たる海上絵巻を繰りひろげる最も異色ある年中行事です。
 また、中世の古城跡としても著名で「河野家譜」には「手勢五騎、旗本十六、軍旗船五隻」とあり、河野氏の海上防禦の役割をもっていました。

鹿島の歴史(鹿島城)

 北条の300m沖に浮かぶ鹿島の海城、鹿島城はいつ頃、誰によって築かれたのかははっきりしていませんが、越智郡上浦町甘埼の荒神社に、同神社創立史並びに甘埼城創立史を明らかにするために、これと関連した風早の歴史にも説き及んだ「伊予風早志」があります。
 同書の中に「天智天皇の10年(671)辛末秋8月7日勅ありて海防城を此の上中下3門島に築き給う。云々」として三つの海防城の拠点となる島を次のように挙げており、第三の下門島海防城が風早の鹿島であるとされています。
 しかし一説によれば、建武年間(1334年~1336年)になって風早郡那賀郡の地頭職、今岡四郎通任が、頂上からの風早郡を一望できる要害に島全体を城郭と見立てて階段式連郭構造の鹿島海城構築を完成したと言われています。
 「萩藩閥録」によると四国征伐を前にして天正11年(1583年)小早川隆景が鹿島城の得居半右衛門の動静を戦国末期として、その立地条件、社会条件から大いに重要性を帯びていたことを示すものと言えます。
 こうして天正13年(1585年)小早川隆景を総大将とする四国征伐は断行されました。このとき先鋒として活躍した来島通総は風早一万四千石を領有し、鹿島城主に任ぜられました。この来島氏も反徳川軍であったため、豊後に転封され自然廃墟となりました。

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