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松山市石手2丁目 石手寺 昭和38年11月1日 指定
【解説】 石手寺の所蔵にかかる『石手寺文書』は10通から成り、そのうちに制札、棟札各々1通を含む。文書は天文8(1539)年から、元和8(1622)年に至る。これら各文書について記述する。 (1) 河野(弾正少弼)通直安堵状 河野通直(弾正少弼、のち龍穏寺殿といい、1572年逝去)が天文8(1539)年7月22日に、石手寺の支院である地蔵院に出した寺務安堵状である。同寺は32坊もあり隆盛を誇ったが、現在は地蔵院のみが存在する。 (2) 河野晴通安堵状 河野晴通(六郎・通政・法雲寺殿といい、1543年逝去)が天文11(1542)年に保童院、地蔵院に出して寺務安堵状である。 (3) 河野(弾正少弼) 通直安堵状 前記(1)の河野通直が天文13(1544)年6月22日に地蔵院主に対し、同院及び中林坊の寺務を安堵したものである。この文書では、地蔵院の下の「深宗」の2字が異筆であって、後日の書き入れと考えられる。 (4) 村上通康安堵状 河野通直に仕えた豪族村上通康(野間郡来島城主)が、永禄元(1558)年9月23日に、石手寺に与えた事務安堵状である。この文書のなかで、最初の「与州石手」の4字は後日に摺り消され、書きかえられたと考えられる。 (5) 河野牛福丸通直安堵状 河野通直(牛福丸といい、同氏の正系を継いだが豊臣秀吉の四国征伐にあい下野する、1585年逝去)が、天正12(1584)年9月18日に、石手寺の生尊坊に対して支院の住持職を安堵したものである。 (6) 加藤嘉明寄進状 加藤嘉明は、慶長5(1600)年関ヶ原の戦いの功労により石高20万石に加増されたので、その翌6年に徳川家康に対し、松山築城の許可を具申して、その許可を受けることができた。嘉明が温泉郡畑寺村で200石の地を石手寺に寄進した時の文書である。 (7) 加藤明成禁制 明成は、嘉明の子であって、父を援けて藩政に貢献していた。石手寺に対し、慶長11(1606)年2月に出した彼の禁制のなかの「花」は、桜花と推定される。それは古くから同寺が桜の名所といわれていたことによって知られる。 (8) 加藤明成判物 明成が、慶長20(1615)年11月に、石手寺の宿坊、法印の屋敷地に対し、免税の特権を承認した書状である。 (9) 加藤嘉明掟書 嘉明が、元和8(1622)年1月に、石手寺住職の実雄に対し、同寺の掟を守り、伽藍堂塔等の補修、法要の励行につとめ、住職の後任には実弟甚賢を相続させるよう規定したものである。
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